【オリジナルSS】男「また、あした」【男女】

2: >>1 2011/03/28(月) 21:19:07.51 ID:gJVBoKdj0
それは唐突に、そして偶然に。神の導きによって行なわれた、ある種の奇跡である。

秋川秀一の場合。

その日、秋川秀一はひどく疲れていた。臆病で気が弱く、常に脅えて暮らしている彼には疲れない日などないのだが、それでもこの日はひどく疲れていたのだ。

彼は美術部に所属しているごくごく一般的な高校一年生で、前述したように常人よりかなり怖がりな性格をもつ少年である。そんな彼にも好きなものがあり、それは絵であった。特に色鉛筆画や水彩画に関しては自身でいくつかの賞を受けたほど絵に打ち込んでいた。中学校のころには廃部寸前の美術部に一人、毎日通いつめて作品を完成させていた程である。そんな彼なので、高校――学校名は八木東高校というが――に入学してからも迷わず美術部に入部したのである。

しかし、理想と現実が食い違うのは世の常である。彼が求めていた美術部というのは、静かで、自分の作業に没頭でき、自分の世界を教室という空間に露出させ、思う存分筆を振るえる空間であった。しかしながら、不幸にもこの八木東高校の美術部というのは人が多かった。そうなってくると彼は聞こえてくる雑音やその他がどうしても耐え切れないものになってしまっていったのだ。そしてある日、彼はある事を決意したのである。端的に言えば、退部したのだ。臆病なところの彼である、退部届けを顧問に提出する際も常に周りが気になり、数回はわき見をした。引き止める顧問の話も半分は聞けていなかったろう。 彼はほとんど涙目になりながら、美術部を後にしたのである。もう、疲労困憊で息をするのも彼には難しかった。

しかし、彼はどこか胸のつかえが取れたように達成感と希望に満ち溢れていた。これで僕は自由だ、といった具合の考えである。人の数倍は悩み事を抱えている彼にとって、美術部を抜けると言う大きな出来事はその悩みのいくつかも忘却の彼方へと追いやることができたのだ。すっかり重荷の取れた彼は何がしたいのかを考える余裕すらできていた。久しく忘れていた、何を描きたいかという発想。この美術部に入っていては描きたいものも描けなくなってしまうと彼は心の中で断言していて、知れずのうちに、彼は呟いた。

「絵本とか描いてみたいね」

そしてそれは、彼の望みを叶える結果にもなるような独り言であった。

冬森雪花の場合。

その日、冬森雪花はひどく疲れていた。臆病で気が弱く、常に脅えて暮らしている彼女には疲れない日などないのだが、それでもこの日はひどく疲れていたのだ。

彼女は文芸部に所属しているごくごく一般的な高校一年生で、前述したように常人よりかなり怖がりな性格をもつ少女である。そんな彼女にも好きなものがあり、それは物語であった。特に童話なんかに関しては、自身で何本も書き綴ったほど執筆に打ち込んでいた。中学校のころは家で一人、休日なんかはカンヅメになってまで作品を完成させていた程である。そんな彼女なので、高校に入学してからは念願の文芸部に入部したのである。

しかし、理想はいともたやすく破られてしまう。彼女が求めていた文芸部というのは、もっと真剣に製作にあたり、少しおしゃべりしながらのんびりと緩やかに自分の作品を書けるような、そんな空間であった。しかしながら、不幸にもこの八木東高校の文芸部は忙しすぎた。漫画研究会と合同でコミケに参加して同人誌を販売するような集いで、部員はほとんどが女子なのだが、口を開けばやれどこそこのサークルの同人誌の質が良いだの、新人のボーイズラブ作家がいいだのと彼女にとって不純且つ不潔なものであった。空気が合わないと判断した彼女は人知れず退部届けを顧問に黙って提出し、部室をあとにした。彼女がソレを提出するときのストレスといったら並大抵のものではなかった。記入漏れがないか何度も何度も確認し、少し文字が気に食わなければ書き直し、退部理由も三度は書き換えた。顧問に提出するときとてどこか後ろめたい様子で、うつむいて涙目になってしまうのを堪えていた。部室を出た直後は息をするのもままならなかったぐらいである。

しかし、少し気を落ち着かせてみると彼女は肩の荷が降りた気分になっていた。彼女なりに心配事は数多くあるものの、一番気に病んでいたことからは離れられたのだ、無理もない。彼女は本来の自分を取り戻し、どんなものが書きたいのかを考える余裕すらできていた。そう思うとかねてより彼女にはやってみたいことがあった。文芸部に入って、できればいいなと思っていた淡い幻想。それを彼女は意図せず呟いたのだ。

「絵本を書いてみたいなぁ」

そしてその幻想は、思わぬ形で叶うこととなった。

また、あした

びっくりした。ひどくびっくりした。なんせ、僕の呟いた言葉とほぼ同じ言葉が真横から聞こえたのだ。まさかのシンクロだよチューナーはどっちかななんて冗談を飛ばす余裕なんて僕にはなかった。おそるおそる右を向くと、同じようにひどく驚いた様子の女の子がこちらを見つめていた。前髪をそろえた長い黒髪の、背が小さく気の弱そうな子だ。確かクラスメイトだったと思う。名前は冬森雪花とかいったかな。ここで奇遇だね、あはは。なんて言えれば上等なのだろうが、あいにく僕はなんか口が動かなかった。僕にできることといえば下駄箱で待機してくれているであろう友人のもとへ逃げるように駆けることぐらいだろう。

そう決断したら僕の行動は早かった。異性に苦手意識を抱いている僕にとってこの状況はとてもよろしくない。女というのは常に集団だ。あの子自身は何もしなくても、そのお仲間が僕に難癖をつけてこないという確証はない。然るに、いつでもどこでも逃げるのが得策なのである。僕は下駄箱に向かい走った。彼女は少々呆然としていた様子だけど気にすることはない。その場から逃げ出せば多くの場合安全だ。幸い、美術室と下駄箱は思っているより近い。運動神経が鈍すぎる僕でも数秒も走ればたどりつけた。

「なんでそんなに急いでいるんだ?」

ようやく下駄箱にたどり着くと、低く迫力のある声が僕を出迎えてくれた。無駄にマッチョな僕の友人、夏原智一が変な物を見る目で僕を見ていたのだ。そんな目で見ないでほしい。まぁ、僕が走るなんて異常事態であることは確かだから、気持ちはわからないわけでもないのだけれど。

「急いでいたわけじゃないけど、少しね。望みが絶たれるところだったから」

「よくわからんやつだな。しかし本当に美術部をやめてきたのか?」

「ま、まぁね……前々から僕の肌に合ってないとは思っていたんだ」

「勿体無い。その力を発揮するところがないわけだな」

「夏原こそ、その筋肉なにに使うのさ」

「最近は空手に打ち込んでいるぞ。お前もやるか?」

「やだ。殺す気?」

3: >>1 2011/03/28(月) 21:19:54.87 ID:gJVBoKdj0
夏原は元々部活に入っていない。というのは彼自身が飽きっぽくて一つのものにずっといられないからである。そのくせ飲み込みはよく、気に入ったら段位とか黒帯とかをもらってからやめるようなひとだ。格闘技をくいちらかすのが好きらしい。今は空手で、この前はムエタイ。その前はボクシングなんかもやっていた。他にもあったが、あげだしたらキリがない。つまりはそれぐらい節操無しに格闘技を習ったのだ。筋肉隆々になるのも当然といえる。なにが楽しいのかまったく僕にはわからないけど。

「そういえば、冬森さんってどんな子だっけ?」

「は?」

僕が唐突にそんなことを言うと、夏原は思い切りマヌケな顔をした。何か珍しいものでもみたかのように僕を見つめてくる。だから、そんな目で僕を見ないでほしいんだけど。失礼な奴だ。さらにそれだけじゃ満足せず、少し目をこすり、深呼吸なんかもしはじめて、先ほどの言葉は何かの間違いだとでも言うように聞きなおしてきた。

「なんだって?」

「だから、冬森さんってどんな子だっけ?」

「聞き間違いじゃないんだな。なんだ、お前。オンナに興味がでてきたのかよ?」

「語弊がある言い方だね……」

ある意味じゃそういう表現もあっているんだけど、そうじゃなくて。単純に気になっただけなのに。僕と同じくして絵本がかきたいだなんて思う人はそうそういない。だから少し興味を沸いただけなのだけれど、それでも夏原にしてみれば驚天動地の事態らしい。仲のいい夏原でさえこれなんだから、僕のクラスにおける評価と思われ方はおのずと分かるというもの。我ながら情けない。

「まぁ、あれだ。いい傾向なのに間違いはない。うんうん」

しかもなにやら頷かれているし。誤解をとくのにも苦労しそうなので放っておくことにする。とりあえず、聞ければいいしね。

「冬森雪花、か……ある意味じゃ……いや。あれはお前そのものだな」

「言っている意味がよくわからないんだけど」

「だから、秋川と冬森はかなり似ているんだって。クラスでも評判だぞ」

いつのまにそんな噂が。僕は知らないぞ。

「ドッペルゲンガー説とか。双子説とか。生き別れの兄と妹とか。まぁ色々でている」

「色々あるもんだね……本人のあずかり知らぬところで」

噂話というのは案外本人の耳には入らぬところで囁かれるものらしい。知りたくなかった新事実である。しかし、似ているっていうのはどういうことだろう。

「どこが似ているの?」

「ああ。まず気が弱いところだ。お前がウサギなら冬森は小鳥かなんかだな」

「なるほど。でも気が弱いだけじゃね」

「二人とも痩せ気味だしな。たんぱく質をとれ、たんぱく質を」

「筋肉をつけさせてなにさせるつもりさ。他には?」

「あと成績は大体上位に入っているな」

「へぇ……。でもそんなに似ているって言えるほどかなぁ?」

「まだあるぞ。お前は絵で冬森は文だ。どちらもクリエイトなものを趣味にしているな。確か冬森は文芸部だったはずだ。ああ。あと、お前は甘い食い物が好きだったよな、軟弱なことに」

「軟弱は余計だけど、まぁ好きだよ。いいよね、チョコとかクリームとか」

「冬森もそういうのが好きだと聞いた。あと、お前も冬森も異性が怖いらしい」

「……一個一個の印象は薄いけど共通点とするならかなりあるね」

「ああ。だからそういう噂の根拠になっているわけだ。なんだ、惚れたか。鏡でも見ろ」

「そういうのじゃないって。ただ、気になったんだ」

「気になった、ねぇ……」

「まぁそんなことはおいといて、さっさと帰ろう。早いとこ家に帰りたいよ」

「ああ。そうだな……おお、そうだ。俺だって今日は空手の道場にいかねばならないじゃないか。よし、さっさと帰ろう」

ここで彼女についての話は切れる。帰り道でも話題に上がることはなかったが、僕の心でどうにも引っかかるものがあった。絵本をつくりたいという呟きは、僕は勿論彼女だって本心だったはずだ。よければ、というより、ストーリーなんて書けない僕一人では絵本なんかかけないわけで、文芸部だという彼女と一緒にやれればいいのができそうな気がする。もっとも、それには前提として彼女が絵を描けないということが必要だ。彼女が絵も描ける人だというなら、僕の出番はないだろう。それと、彼女にそれを提案できる勇気が僕に必要となるけど。……何だか無理っぽいな。あまり話したこともないし、所詮は夢物語に過ぎないのだろう。無念といえば無念だが、こればっかりはどうしようもない。僕は物語が作れないし、物語を作れる人を誘う勇気もない。絵本はかいてみたいけど、物語なくして絵本はかけない。既存のものを使うのもなんとなくいやだ。オリジナルのものをかいてみたい。あまりに贅沢な考えなのかもしれないが、こればっかりは譲れない。それができないなら、絵本をかくことは諦めるほかない。しょうがない、諦めよう……。

4: >>1 2011/03/28(月) 21:23:06.47 ID:gJVBoKdj0
かくして翌朝。キッパリ諦めると決めたつもりの僕だったが、どうしても未練があった。試す前に諦めていてどうするのだろうか。絵本は僕一人で書けるものでもない。それなのに僕ときたら冬森さんにそれを提案する前に諦めるんだなんて。そんなのは単なる逃避だ。僕が自分自身から目を逸らしているだけなのである……とまぁ、己を叱咤激励しても無理というものがある。そもそも僕は女の子に話しかけられない。口が動かないし硬直するし。それは同じ属性をもっている冬森さんにも適用される。ようするに持ちかけることすら難しい。やるにしても喋りだすのに10分以上は軽く経過してしまう。そんな自分が情けなくて心底いやになるけど、どうしてもしょうがない。これは性分なんだ。僕は、女の子が怖い。近づかれると、話しかけられると、泣いてしまいそうになるんだ。それというのも、過去のあまり思い出したくないあるコトが原因である。僕の女嫌いの原点といっていい。ひどいトラウマで、今でも思い出したらなんだか当時の自分に戻って泣き出してしまいそうになることだってある、それぐらい、幼く繊細な当時の僕にはショッキングな出来事がおきたのだ。

確か、まだ小学生低学年だったと思う。そのころは僕はまだ女の子が嫌いじゃなかったし、別になんとも思わなかった。そのころから絵が好きだったので、女の子への興味なんていうのはほぼ皆無だったのである。そんなある日に、事件がおきる。隣の席の女の子が僕の大事にしていた本を何かの拍子に破ったのである。彼女が謝ろうとしないので僕はひどく怒って、声を荒げて彼女を紛糾した。罵声も少しは浴びせたと思う。人のものを壊しておきながら素通りしようとしたんだ。僕は心の中に正義の炎を燃やしていたと思う。そしたら、少し強く言い過ぎたのか、それとも策略か。今となってはよくわからないが彼女が泣き出してしまったのだ。泣いたって僕の怒りは納まらない。とにかく謝ってもらおうとしていたと思う。それなのに、なんだかよくわからないけどクラス中を巻き込む問題にまで発展した。それで、なんだか、女の子を泣かした僕は悪としてみなされた。僕は僕が正義だと思っていたのに、だ。物を壊された被害者でもあるのに、だ。事の本質は無視して何故か泣かせた僕が大悪人に仕立てあげられ、あれよあれよの間に僕は何故か逆に謝らせられて有耶無耶になり、時がたつにつれその事件が針小棒大に膨らんでいって僕は濡れ衣も何着か着せられることになり暗黒の小学生時代をすごしたのだ。もう、女の子なんて大嫌いだった。中学に遡ればまだそのことを引きずって新たな濡れ衣も何着か着込んだと思う。女子グループによるイジメにも結構あったものだ。自称被害者の増加も留まるところを知らず、中学二年生の頃には、僕が名前も知らないような女の子を強姦したとかいう謂れの無い罪を着せられ、職員室で問いただされ無罪が判明するまで僕はもう死にたくなるほどの悪人扱いを受けたものだった。このころには女の子なんか死滅しろと本気で言っていたような気がする。我ながら悲惨な人生送っているなぁ。だからわざわざ偏差値高めのこの高校を選んだんだっけ。

そして、僕は泣きたくもない。そんなことがあったので昔からよくいじめられたものだったが、その時言われた言葉が今でも僕の心に深く突き刺さっている。「お前の泣いた顔、まるで女の子みたいだ」僕が泣いてしまって、そんな顔を見せたときにいじめていたグループの一人が面白がって発した言葉だ。でもそれは何より僕へのダメージへと繋がる。僕は僕が嫌いな女の子みたいな顔をしているとのことなのだ。普段から女顔、と言われてしまったら僕はもうどうなってしまうんだろう。そんなわけで、僕は涙なんか見せたくない。

6: >>1 2011/03/28(月) 21:23:47.57 ID:gJVBoKdj0
「あきかわくん?」

で、教室。ぼーっとしているところに何やら高い声で、おずおずとした、まぁ、所謂女の子の声に背後から呼ばれてしまう。なんで、また、僕なんかに。何か用なんだろうか。僕は最大限の譲歩の気持ちを持って、精一杯のつくり笑顔で振り向くと、そこには冬森さんが緊張した様子で立っていた。どうにも落ち着かないらしい。僕もそれは同様だが。

「昨日言っていたこと、本当ですか?」

「昨日?」

「絵本のこと。私も、絵本をかきたいんです。でも、私、絵は描けないから」

「……僕も、お話をつくることはできないな」

「だから、一緒に絵本を作りたいな、って……」

どうしよう。急展開だ。でも、これはある意味理想系だろう。向こうからチャンスがやってきた。恐らく彼女も最大限の勇気を振り絞って僕にソレを持ちかけてきたのに違いない。そんな彼女の思惑を裏切ることはできないけど、なんというか、今一歩踏み出せない。

「……だめ、ですよね」

「だめ……じゃ、ないん、だけど」

思わず夏原に助けを求めてみる。目線を夏原に向けたが、ニヤニヤした笑みを返してくるだけだった。薄情者だ。そして何やら彼女も視線を僕から外していたのでそちらを見ると、今度は生徒会役員で次期生徒会長は確実と言われる春野都子さんがいた。こちらもニッコリと彼女に微笑みかけている。つまりは、僕らはお互いの保護者ともいえる人物らに生暖かい眼で見られていることになる。なんだか気に食わなくなってきた。それに、だ。冬森さんだって僕という異性の存在が強く苦手なのだ。一般常識として(この定義はあんまり好きじゃないんだけど)女の子は男よりもか弱いのである。そんな彼女から僕を誘ってくれたのに僕がまごまごしているというのはなんだかマズいんじゃないか。僕にも、吹けば飛ぶようなものだとはいえ、プライドぐらいある。

「冬森さん」

「は、はい」

「喜んで製作に協力させてもらうよ」

「本当? ありがとう」

「こっちこそ。絵本はずっと描いてみたかったんだ」

「私も。ふわふわして、かわいいお話がかければいいなって思っていたんです」

何だか二人して棒読みだった。どこまで本心の言葉なのやら。で、堪らずに二人してそれぞれの友人を見る。また二人の反応は同じようなもので、笑いながら近づいてきた。僕らはなんか、あれか。ちっちゃい子か。

「青春っていうか、なんというか。ドラマを見ている気分だった」

「私も。こんな面白い組み合わせってあったのね」

そして、夏原と春野さんの二人に何やらそういうことを言われてしまう。ひどい言われようである。面白がられても、僕らは困るんだけどね。

「その、提案があるん、です、けど」

なにやら句読点大目に冬森さんがびくびくしながら口を開いた。

「部を……絵本部を、作りませんか……? そうしたら、文化祭で部誌として出せますよ」

「絵本部? でも、僕と君だけじゃあ作れないけど」

「な、夏原君と……春野さんも入ってもらいます! そうすれば、人数はギリギリOKになるんですよ。顧問の先生は……適当に引っ張ってくればいいですから」

「雪花がそういうなら、私がことわる必要は無いわね」

何だか、すごいことになってしまった。なんとなしに夏原に眼を向けると、夏原は何やら大袈裟に咳払いをしてからその口を開いた。

「秋川がそれでいいなら、俺も入らない理由がないな」

「……じゃあ、そういうことで。夏原もよろしく」

なんだかんだで、四人で絵本部を結成することになってしまった。善は急げと言うことで、適当な暇をしている先生を見つけて顧問になってもらった。春野さん効果様々だ。次期生徒会選挙をやれば確実に生徒会長で、そうでなくても現時点でかなりの信頼を得ている彼女が如何にもなことをいえば彼女の頼みごとを断れる教師なんてそうそういない。何やらすごい人脈を得てしまったぞ、僕。まぁ、活用機会はこういう場所でしか出てこないだろうケド。さらに部室も適当な空き教室が宛がわれることが決定。必要な書類も即日に提出したということでめでたく絵本部は発足することとなった。予算はすでに編成されているために部費が今年度はゼロ円ということになるけど、お金がとくに必要な活動をするわけでもない。私費でまかなって来年度の予算に期待するしかないだろう。

それにしても、どうしてこうなったんだろう? 何やら、僕らしくない大きな変化の流れに巻き込まれてしまっている。美術部をやめて、新たな部活を作って活動するだなんていうのは今までの僕を考えるとかなり考えられないことだ。でも、自分がやりたいことができるチャンスがめぐってくるのは決して悪くない。久しぶりに、楽しんで絵がかけそうだ。絵本。僕の最近の、ちいさな夢。夢に溢れた、お菓子のように甘い話。それの絵を描けるというのは僕にとってかなり嬉しいことなのである。彼女がどんなお話を用意してくるのか、かなり楽しみだ。

7: >>1 2011/03/28(月) 21:24:34.37 ID:gJVBoKdj0
とりあえずだーっと投下。

……読みづらいような。

11: >>1 2011/03/28(月) 21:32:21.84 ID:gJVBoKdj0
かくして初日。

夏原はおらず、春野さんもいなかった。春野さんは生徒会か何かで忙しいから遅れるとのこと。夏原は単純に稽古があるらしかった。

いきなり冬森さんと二人きりになったので、とても気まずい。宛がわれたこの空き教室はどうも二人では広すぎる。

さて困った。冬森さんもそれは同様らしく先ほどからちらちらとこちらの様子を伺ってくる。

気になりすぎて大本のお話の構想を練るのに集中できないといった様子だ。

これは、よくない。何か責任めいたものを感じると同時に、僕的には最大限の勇気をもって、冬森さんに話しかけることにした。

「そういえば」

僕がそう口を開くとほぼ同時に、冬森さんのその小柄な身体が僅かに震えた。他人の目から見た僕というのはこんな感じだろうか?

夏原が見ていれば本当にそっくりだとからかってきそうだ。ともかく、これはお互いのためにも会話ぐらいには慣れたほうがいい。

苦手苦手といって避けていたのでは潤滑に製作はできなくなる。

絵本を作るには、やはり二人の作者にはそれなりのコミュニケーションが必須といえよう。僕はそのまま言葉を続けることにした。

「よく、僕なんかを誘う気になったね」

彼女は僕の発言に意外そうな顔をして、その薄い唇を開いた。

それも、おっかなびっくりという表現が似合う。お互いに、慣れないことをしているというのが丸分かりだ。

「絵本をつくりたい、って私と同時に呟いていたので……」

「それはそうなんだけど。実はというと、僕も君を誘おうかと少しだけ思ってたんだ。でも、君みたいに勇気がなくてね。このことは、諦めるって決めていたぐらいなんだ。だから、よく君は異性である僕を誘えたね、って思って」

「ああ。春野さんが、是非って。春野さんから、秋川君のことを聞いたんですよ」

驚いた。僕と夏原に似たやりとりを冬森さんはしたらしい。夏原は怪訝そうにするばかりだったが、春野さんは僕を誘うように促したわけだ。それで、誘えたのか。冬森さんの中で春野さんの存在は結構大きな位置にあるようだ。

僕と夏原のような共利的な関係よりも、少しばかり踏み込んだものであるらしい。それにしたって、僕が夏原に同様の事を提案されたところで乗れただろうか?

多分無理だろう。僕が女の子に、一緒に絵本を作ろうと持ちかける。無理だ。多分じゃない。絶対だ。

それをやらせるまでに到らせた春野さんという人物は一体……。ひょっとしたら、とても恐ろしい人なのかもしれない。

冬森さんという間がなければ、恐怖の対象となっていたかも。

12: >>1 2011/03/28(月) 21:36:29.67 ID:gJVBoKdj0
「それに」

一人、違う方向に考えが進んできていたところに二の句がきたもので僕は先ほどの冬森さんではないけれど、少しばかり驚いた。

肩ぐらいなら揺れただろう。僕は若干の気恥ずかしさを感じながらも平然を装い、戸惑っていた彼女に続きを言うよう促した。

「秋川君の絵、見たことがあるんです」

「僕の絵?」

「はい。展覧会に、いったことがあって。それで、秋川君の絵が、とてもキレイだったから。それもあるのかもしれません。私、秋川君の絵が、好きなんです」

好きなんです。言われたことが無い言葉なだけに、上手く認識できない。今まで生きてきて、僕に対してそんなフレーズが耳に入ってきたことはなかった。少しばかり、照れる。しかし、展覧会のときの絵か。一応、賞をとったからしばらく置かれていたんだっけ。

「そっか、ありがとう」

僕の絵が好きなんだといわれたのだからお礼ぐらい言わないといけないが、これは上手く言えていなかったと思う。

思えば、女の子にお礼を言うのも初めてだ。なんだかこの時間だけで新鮮な体験をいくつもしている。

それが僕にとって後々プラスになるのかどうかは、まだわからないけど、悪い気はしない。

「だから、私のお話に、秋川君の絵がつくなんて、本当に嬉しいんですよ」

「僕でいいのかな、って気もするけど。期待には応えるよう尽力するよ」

ややぎこちないやり取り。僕の絵が好きだというのもどこまで信じていいものか。

まぁ、僕らはこうして少しずつお互いの距離を縮めて、異性への恐怖感を段々と消していかなければならない。

初めなのだから、こんなものでも誰も怒らないだろう。無理しちゃいけない、少しずつだ。そうでなくば、身体に悪い。

「ベタな青春ドラマ送っているわね。面白くていいけど、私を仲間はずれは少し寂しいかなぁ。というか、入ってきたのぐらい気づいてほしかったなぁ」

そんな声に驚いて振り向くと、春野さんがいつのまにかそこにいた。

記憶が正しければ先ほどまでいなかったハズだが、もしやテレポーテーションの類?

当のテレポーターはさも面白いものを見たという風に、顔をニヤつかせている。

この人はどうにも今でも脳が警鐘を鳴らしてくるタイプの人だが、冬森さんが全面的に信頼するほどの人だ。

悪い人ではないのは確かだろう。それに、外面で何も決めてはいけない。彼女について僕はほとんど何も知らないのだから。

だから金髪さんというだけで不良っぽいなぁとか決め付けるのは僕の偏見であって、正すべき思考であろう。

「随分面白い顔しているわね、秋川君」

「は、春野さん。秋川君が困っていますよ」

「……困らせるつもりはなかったんだけどね」

何だか好き勝手言われてしまったので、僕も反論することにした。

「若いうちに毛を染めると髪を傷めますヨ?」

結果、散々笑われたのだが。まぁ、彼女がハーフだなんていうバックストーリー、僕なんかが知っているほうがおかしいのだ。

うん。僕は間違ってない。それに、ほら。なんだか部内の空気があったまったような気がするからいいのさ。

たまには僕だって道化師の役を買ってみたくなるときがある。

つまり、あそこであんなコメントを放ったのは僕なりのボケだ。あそこでおきた笑いは当然というかウケなのだ。

だから僕は何も気に負うことなんてないのだ。きっとそうだ。いやそうなのだとたった今決めた。

決めたから、このことは黒歴史行きだ。もう二度と思い返すこともないだろう。

13: >>1 2011/03/28(月) 21:40:00.48 ID:gJVBoKdj0
二日目。

登校中、前を行く冬森さんに気がついた。知らぬ仲でもないのでなんと無しに声をかけたのだが、逃げられてしまった。

こちらを振り向くこともしない。多分、声だけで顔と名前が出てくるほど僕を覚えていないのだろう。

男の声で自分の名前が呼ばれたというだけで恐怖の対象らしい。

多分、僕もそんな感じだ。無理も無いので、気にせず進めることにする。

発足のとき以来、教室で話したことはまだないぐらいだし。

あの時僕に話しかけてきたのも、春野さんに監督されているからというのが大きいだろう。

彼女と僕、それぞれが体験してきた傷や経験というものはそう簡単には塞がらなく、時折こういう場面として壁として現れる。

しかし、一つの共同目標が掲げられている今、それを乗り越える必要があるのである。

……それにしては、文化祭までという期間は少しばかり短いような気がする。大丈夫だろうか。

問題大アリなような気がするんだけど。まぁ、今気にしてもしょうがないか。

とりあえずは、目標の達成まで努力することが肝心である。

「よう、秋川」

「おはよう、夏原」

いつもの筋肉が登場してきた。朝からムキムキで愉快な仲間である。

この辺りで喧嘩を売ってはいけない人ランキングのベスト10には入るだろう彼は一体どこへ向かおうとしているのやら。

その筋肉で何をしようってんだろう。

「失礼なことを考える奴だな」

「その読心もやめてほしいものだけど」

「それにな、お前が筋肉無さ過ぎるんだ。俺と走るか?」

「殺人です」

「お前なぁ」

足からぐっちゃり行くね。骨の細さも脆さも自覚がある。体力の無さに到っては誇れるほど。

思わず威張っちゃうね。非力さ世界チャンピオン。

「まぁいい。さっさと行くか。物理、小テストだったろ」

「ああ。そういえばそうだった。困ったね」

「そんなこと言いながら毎回点は取るんだから、嫌味な奴だよ」

「それはどうも」

嫌味な奴といわれてもどうしようもない。そんなにいい点を取ると言うわけでも無いんだけどな。

物理、あんまり得意じゃないんだよね。

結局、教室に入ってからも冬森さんと会話することは無かった。

当然、大体は彼女の近くにいる春野さんとも同様だ。部活、大丈夫だろうか?

少し不安になってきた。なるようになるしかないのが現実ではあるが、この壁じみたなにかを取っ払う必要があるのもまた事実だ。

歩み寄りの姿勢が重要であるハズなんだけどね。

僕はまだ冬森さんがどこか怖いし、彼女もまた同様だろう。つくづく、難儀なことだ。どうしたものかね。

14: >>1 2011/03/28(月) 21:43:35.91 ID:gJVBoKdj0
放課後。

例によって二人が不在の状態で部活が始まった。同じクラスなので冬森さんとは一緒に部室に向かったのだが、廊下で会話は一切無し。

事務的な雰囲気で二人並んで歩いてきたわけだ。そのせいか、通りがかりの誰もが怪訝そうな顔をしなかった。

そりゃ、二人して無表情で歩いていれば他意はないのが丸解りというものだろう。

さて、めでたく本格的な活動となるわけだが、僕はやや手持ち無沙汰であった。

考えてみれば、お話を考えるところから始めているので僕の出る幕は今のところない。

それでもなんとなくここまで着てしまったので帰るのもばつが悪いし、付き合うことにする。

それでも、話題がなんとなくあった昨日と比べて今日は絶望的だ。胃に悪い。

それに、冬森さんはペンを片手にノートに向かって何か書き込んでいる。

恐らくはお話を作る際の設計図的な存在である‘プロット’を考えている最中なのだろう。

そうなると、迂闊に話しかけていいものか疑問だ。でも、対話せねば関係も発展しない。

とりあえず、僕も作業の片手間に話しかけている、という自然なシチュエーションを作り上げるためにスケッチブックと、鉛筆を取り出した。

どうせ暇なんだから何かスケッチをしていよう。それなら話しながらでもできるし、我ながら名案だ。

「冬森さんは」

話しかけたところで彼女の肩が揺れた。というより、引いた。結構ショックを受ける。受けたついでにスケッチの目標を彼女に決めた。

斜め後ろのアングルから彼女をスケッチすることにする。少しは女の子耐性がつくかもしれない。前向きに考えよう。

彼女の応答がないので、僕は言葉を続けることにする。

「物理の小テスト、どうだった?」

「わ、悪くなかったですよ」

声が震えている。いや、僕のこの問いかけも若干震えているかもしれない。

昨日はやはり、お互いに頑張ろうと無理矢理に明るく振舞って話が弾んでいたように見せかけていただけだろう。うん。やっぱり似たもの同士。

周囲の評価は概ね正しかったらしい。

「点数を聞いても?」

「8点でした」

「同点か。今回の、なかなかに難しかったよね」

「はいー。春野さんも7点ですから。春野さんに物理で勝ったの、久しぶりなんですよ」

15: >>1 2011/03/28(月) 21:47:06.95 ID:gJVBoKdj0
ちなみに、物理の小テストは10点満点である。にしても、春野さんに勝ったのか、僕は。

これまた珍しいものである。秀才な彼女に勝っていたとは。

驚きのあまり線がブレてしまったので、そこを消しゴムで修正しつつ口を開く。

「あの8問目部分だけは期末に出さないでほしいよね」

「同感ですけど、そういう部分に限って出るものなんですよ」

「違いないや。ここの部分はちゃんと勉強するか、いっそ棄てないとダメかな」

「そう大きくは出なさそうですしね。棄てるのもアリかもしれません」

苦しい。変な汗を掻いてきた。異性との会話がこうも緊張するものだろうか。

多分、彼女も同じ思いをしていることだろう。不器用というか七面倒というか。

こんなだから僕は今まで女の子恐怖症が改善されなかったのだろう。

今思えば、過去のどれもこれも、僕が何か踏み出せば少しは好転したかもしれない。

苦しいけど、今は続けないと。

「あー……その、お話は何か案が?」

「今考えている途中なんですけど、なかなか決まらなくて」

「そっか。あ、いや。せかすつもりは無いんだけど。気になって」

「それでも、できる限り急ぎますね。できれば近日中に書き始められるように」

「あんまり遅いのもあれだけど、それでも急ぎすぎない方がいいよ」

「は、はい。大丈夫ですよ」

どうも不器用なやり取りになる。そろそろ誰かしら助けてくれないものかな。

そう考えていると、廊下から足音が聞こえてきた。そりゃ誰かしら通りかかるだろうが、タイミング的には救世主的な何かを期待してしまう。

顧問とか?(顧問は名前だけぐらいの感じだったので来るハズもないのだが)

「遅れたわ……って、あら。二人して作業中ね。お邪魔かしら」

「そんなことないですよ。春野さん。丁度、お話つくりに詰まっているところなんです」

「そう? 秋川君は……暇そうね。スケッチ?」

思わずスケッチブックを閉じた。冬森さんを描いていると知られるのはなんとなくマズイ気がする。

概ね完成していたしもうこれはこれで描き終ったということにする。

「まぁそんなところです。それにしても、もうこんな時間ですか。帰りません?」

ちょっと敬語になった。春野さんに話しかけるのは当分なれないと思う。

「まぁね。私も、雪花を迎えに来たようなものだったし」

「あ、そうだったんですか? じゃあ一緒に帰りませんか」

「ええ、勿論」

たちまちにガールズトークが始まる勢いだったので男一人な僕は逃げるように退散することにした。

やっぱり慣れない。明日にはまた、その。少なくとも今日よりは縮んだ関係を築きたいものである。

積み重ねが重要とはいっても積み具合が薄すぎる気がしないでもない。

本当にこれから大丈夫だろうか。

16: >>1 2011/03/28(月) 21:47:34.22 ID:gJVBoKdj0
小休止。改行はこんな感じでいいでしょうか?

18: >>1 2011/03/28(月) 22:06:25.99 ID:gJVBoKdj0
もっと1レスを短くしたほうがいいですかね?

特に考えてなかったな……。あともう5,6か3、4ぐらい……?

21: >>1 2011/03/28(月) 22:37:22.06 ID:gJVBoKdj0
そんなこんなで発足してから、一週間が経過した。夏原と春野さんは宛がわれた部室に顔を出すことはあまり無い。

春野さんが冬森さんと一緒に帰るために帰り際に顔を出すのはノーカウントだろう。

もともと二人はわりと忙しい人であるし、絵本を製作することに関しては積極的ではなかった。

あくまでも僕達の活動を応援するというのが二人の名目であり、それには部活として成立するための頭数に自らをカウントするというのも入っているのであろう。

そんなわけで、僕は冬森さんと今日も二人きりだ。冬森さんはよほど集中しているのか真剣な眼差しで原稿用紙にペンを走らせている。

彼女の表情はほころんでいて、実に楽しそうだった。

小説じゃないわけだから、文字数は多くないのだと思う。

それでも僕から見たら結構な枚数いっているので僕に対する絵の注文とか、その他色々な書き込みもされているのだろう。

それにしても楽しそうだ。創作というのは元来そういうものでなければならない。苦しみながらかいたりするなんていうのは嘘だ。

そんなのは自分のしたいことではない。自分が表現したい世界ではないのだから、苦痛に決まっている。

そんな苦痛の中僕らはいたのだろうから、この絵本部という場所はまさしく天国になるだろう。少し言いすぎかもしれないが。

しばらくして、一枚書き終えたのか冬森さんが笑みを浮かべながら僕にソレを手渡してきた。

内容は、ある女の子がカフェオレを飲みながらボヤいているとカフェオレの海に落ちてしまった……というものだ。

絵本らしいメルヘンな路線らしい。これを僕が絵にするとなるとおおよそ二枚のイラストになるだろう。

つまりは、女の子がボヤいているシーンと、海に落ちてしまったシーンだ。

思ったより出来上がった絵本のページ数は多くなってしまいそうだが、そこはまぁ後々微調整していけばいい。

22: >>1 2011/03/28(月) 22:39:17.59 ID:gJVBoKdj0
「どう……です、か?」

おずおずと冬森さんが言うのも恥ずかしそうに僕に出来を尋ねてきた。未だに、異性にどう接したものかわからない。

ただ、冬森さん相手だと、お互いにお互いが苦手だとわかっているので、その分話しやすいし、打ち解けやすい。

今まで僕は苦手な女の子に例外をもたなかったが、冬森さんは近々その例外に当てはまりそうだ。

そうなれば、絵本作りだって今よりもっとスムーズになる。僕はなんだか淡い期待をしつつ、感想を求めた彼女のために口を開いた。

「面白いと思うよ。メルヘン路線かな」

「はい。絵本っていったらやっぱりメルヘンだと思うんです」

「同感だね。僕は早速、これをイラストに起こせばいいかな」

「もう描けるんですか?」

「描き始めることはできるよ。一枚仕上げるのに二日から三日必要かな」

「なら、私はその間にも続きを書きますね。一緒にやっていった方が、きっと楽しいです」

冬森さんはホッとしたような、それでいて嬉しそうな笑みを僕に投げかけてきた。

ううん。異性とのつきあいが苦手だなんて嘘っぽく感じてきてしまう。

でも、あの時のアガリっぷりときたら(僕も同様だが)尋常じゃなかったので、まぁまぁ真実なのだろう。

まぁ、彼女も僕に対し似たような印象かもしれない。こうした会話なんて僕は仮面を被っているようなものだ。

どう接したらいいかわからないから、当たり障りの無いポイントを探しているといったところか。

同じような境遇な彼女なら僕と同じような対応をしていたとしても不思議な話ではないだろう。

まさかこんなところで自分の性転換版ドッペルゲンガーに出会うことになろうとは思っても見なかったが、それでもこうして自分のしたいことができるのだから文句はいえない。

僕は曖昧な笑みを崩さずに口を開いた。

23: >>1 2011/03/28(月) 22:40:43.69 ID:gJVBoKdj0
「目標は文化祭だね」

「いいものができたらいいです、よね」

「やる以上はそれを目指していこう」

僕は早速画材一式を取り出してイラストを起こしにかかった。今日のところはひとまず下描きになる。

それで全体的なイメージを掴み、実際のイラストになるのは明日か明後日か。

僕自身遅筆な性質なので冬森さんに悪い気もするが、こればかりは僕の性分なので諦めてもらう他ない。

僕はなんだか黙って描いているというのもなんだか気まずい気もしたので、再び机に向かい原稿用紙と格闘しだした冬森さんに話しかけることにした。

「冬森さん、甘いものが好きだって聞いたけど」

「はい? え、ああ。うん。好きなんです。秋川君も、そうらしいですね」

「まあね。大好物なんだけど、この辺りでいいお菓子屋さんを知らないかな」

「あ。なら、風鈴堂ってお店が、美味しいんですよ」

その店舗名には聞いたことがあった。というより、良く行く店ベストテンぐらいには入る。これで好みまで一緒だったりして。

「そこなら知ってる。冬森さんは何が好きかな」

「あ。知ってるんですか? あそこ、隠れた名店なんですけど。そうですね、私はー……風鈴堂特製加寿帝良が好きで。行くたびに買ってるんですよ」

「あそこのカステラか。いいね、僕もよく買うよ。あれもいいけど、僕は風鈴最中が好きだな。少し小さめで食べやすいし、数もあって安いし。理想系かな」

「モナカですか。いいですね、私も大好きなんですよ」

なんだかすごく話が弾むじゃないか。同好の志とはこうも話しやすいものか。何で今まで真っ先にこの話題を出せなかったんだ、僕。

それに絵の調子も悪くない。まだ下描きとはいえここまでのスピードで描けているのは自己新記録だ。それに何だか気分もいいぞ。

異性との会話でここまで話が楽しいのは初めてかもしれない。

僕が仮面気味に浮かべていた曖昧な笑みもいつしか心からの笑みへと変化していることも自覚できる。

彼女もそれは同様なようで、何だかお菓子の話一つでえらく打ち解けたような気すらしてくる。

甘いものの力って偉大なのだと思わず感心してしまうぐらいだ。いや、間違いなく偉大なのである。うん、と僕は心の中で大きく頷いた。

24: >>1 2011/03/28(月) 22:42:11.53 ID:gJVBoKdj0
「二人ともやっているわね」

と、そこに春野さんがやってきた。ハーフだという彼女はその翠色の瞳と輝くような金の髪が印象的だ。

エネルギッシュで活動的な人で、先生やクラスメイトからの信頼も厚い。アネゴ体質というのがあるが、それを地でいっているのだ。

ただ、僕は彼女が苦手である。得てしてこの世は声の大きい人が強い世界なので僕が彼女のご機嫌を損ねたら社会的に抹殺されることうけあいだからだ。

ニートにはなりたくない。いや、生き残れない。生き残りたいのに。崖っぷちでいいから。

彼女に寵愛されている冬森さんなんかは彼女の来襲を喜んでいる様であったが、僕は内心脅えながら曖昧な笑みを再び浮かべた。

「どんなお話になるの?」

「お菓子の国に迷い込む女の子の話にしようかと思ってて」

「へぇ。面白そうじゃない」

「ですよね。秋川君が絵を描いてくれるから、きっといい絵本になると思うんです」

冬森さんはどこか照れたように笑った。

一方春野さんはそんな冬森さんの笑みを見るや否や、猫科の動物を彷彿させるような笑みを浮かべ、僕をわき目で見てきた。

なんというか、怖い。怖いなんてもんじゃない。恐ろしい。ヘビに睨まれたカエルの気分である。

彼女は僕を品定めするようにしげしげと(あくまでも顔は冬森さんに向いている)見つめ、しばらくしてから視線を冬森さんに戻した。

なんだろう。何をする気だろう。いや、僕は何をされてしまうんだろう?

思わずペンに迷いが生じる。線が大幅に歪んできたのでそこを消しながら、心を落ち着かせることにした。小休止といこう。心臓に悪い。

28: >>1 2011/03/29(火) 20:07:05.55 ID:NprJWFFv0
そんなこんなで、数時間が経過した。

日が長くなってきたとはいえ、いい加減暗くなってきた。まだ学校に残る生徒たちは運動部だけだろう。

もっとも、厳しいことで知られる陸上部はまだまだこれからが本番である。彼らの熱血に敬意を払いつつ、僕らは帰ることにした。

春野さんは僕らが帰るより結構前に帰っている。

彼女は一般の家より門限が厳しいだとかで、冬森さんを家に送っていきたいのはヤマヤマだがヒステリックな母親の声は聞きたくないということらしい。

そんなわけで、その任はどういうわけだか僕にお鉢が回ってきたのである。

そりゃ、冬森さんみたいな人が一人でいるのはとても危ないだろうケド、僕がいたところで獲物が二匹に増えるだけだと思う。

被害者数をカウントするなら僕がいたほうがひどい結末になるというどこか矛盾じみたことすら発生してしまいそうだ。

だというのに、当の冬森さんときたら何やら嬉しそうな様子で顔に微笑をたたえている。

不安になれないウサギは真っ先に食べられてしまうのが相場というものだが、もうここまできたからには僕も腹を括るしかない。

夏原を呼ぼう。あとで、こっそり。こういうときでこそ彼との共利共生の関係というものは発揮されるのである。

生まれついてのソルジャーに任務を与えるのはまさに今だ。

もっとも、今この場で呼ぶのはあまりに僕がかっこ悪いのでやめるけど。僕にだって張りたい見栄はある。

冬森さんの前(そして冬森さんは僕の敵たる女の子である)で張る意味があるのかどうかは脳の片隅に追いやっておくが。

29: >>1 2011/03/29(火) 20:08:41.02 ID:NprJWFFv0
「とりあえず、帰ろうか」

「あ、その。一緒に、というより、送ってくれるとか……」

「春野さんの言うことには従わなきゃね。彼女には恩もある」

「その、嫌ならいいんですよ?」

「そういうわけにもいかないよ。モラル的にも考えて」

「なら、これから一緒にマーブルに行きませんか?」

「いいね、僕も少しお腹が減っていたところなんだ」

「今日はマフィンを買うつもりなんですよ」

「マーブルといえばマフィンだよね。どの店よりもああいうのはマーブルが美味しい。ただ、僕は何か……そうだなぁ。クリーム。それもチョコのがいいな。ケーキにしよう」

「ケーキ。いいですよね、でも、結構高かったと思うんですけど」

「今のところは財布に余裕があるからね。少し贅沢したいんだ」

僕がそういうと、冬森さんはしばらく思考を巡らせた後、我慢できないとでもいうように口を開いた。というより、ずるい、とはっきりいっているような眼で僕を見ている。

「うう。じゃあ、私もケーキにします」

「え? 高いって言ってなかった?」

「あそこのチョコケーキ、絶品なんですよ。だから買おうと思うんですけど、目の前で買われると私まで欲しくなっちゃいます。もう頭の中、マーブルのチョコケーキでいっぱいなんですよ」

「そんなこと言われると責任感じるなあ。まぁ、いいか。じゃあ行こう」

僕が教室から出ると、冬森さんもすぐ隣についてきた。

傍目から見たらどう考えてもそういう風に見えるだろうので、僕は若干の気恥ずかしさを負いながらもマーブルに向かったのである。

無論、そこまでの道中、そしてそこから冬森さんの家までこの状態が続くことになる。なんだか僕の精神力を試すような場面だ。

でも、春野さんの命なのだから投げ出すわけにもいかない。彼女は間違いなく怖いひとだが、僕の恩人であることも確かなのだから。

こういう形でもその恩に応えなければならないのである。彼女は僕に恩を着せたつもりなかったとしても、だ。

しばらくして、洋菓子店「マーブル」にたどり着く。店内に入ると、お菓子屋さん独特の甘い匂いが鼻についた。

やはり、いつきてもいいものだ。お菓子屋さんというのは。

30: >>1 2011/03/29(火) 20:11:43.20 ID:NprJWFFv0
そしてそれは冬森さんも同様らしく、花が咲いたような笑顔を浮かべてケーキが陳列されているケースに近づいていく。

目当てのものはチョコケーキだが、その前に目移りするのが彼女の決まりらしい。

僕は、一度決めたらそれにするのがそうなのだが。まぁ、そこは些細な違いだろう。

共通項だらけの僕らにとって、違うところは少しでも多いほうがいい。

あんまりに似通っている者同士の距離が近ければ、当然のように誤解がそこに発生することになるからだ。

僕らがそういう関係だと誤解されるのは、きっと、どちらにとってもよろしくないだろう。

僕はいいとしても(男女の仲という概念が根本的に理解できない僕にとって、そういう関係に見られたからどうなんだっていうことがよくわからないからだ)

彼女にとってみればどうだろう。

女の子は些細なことで大きな問題を作り出すのを好む生物らしいから、彼女が何やら大事な事件に巻き込まれてしまう可能性がないわけではない。

「ねぇ秋川君。私たち、運がいいみたいです」

急に話しかけられたもので、驚いてしまった。それにしても何で僕は大好きなお菓子やさんでこんな小難しいことを考えていたのか。

甘いものの前に難しい考えはナシだ、ナシ。僕は心からの笑みを作って(なかなか自然に出てこないのが物悲しい)応える。

「運がいいって?」

「このチョコケーキ、最後の二つなんです」

「それは確かに運がいいね」

僕がそういうのを待たずに冬森さんは二つ頼んでいた。なんだか、僕の名誉にかかわるような眼で見られてしまいそうだ。

なにこれ、まるで僕がケーキを女の子に奢らせているみたいじゃないか。あまりにも不名誉すぎる。

というより、この店は僕も好きなんだけど。店員からの目が痛すぎてなかなかこれなくなりそう。

「買ってきました。思わず私が二人分買っちゃったんですけど、秋川君。ぴったりありますか? 私、小銭が心もとなくて。お釣りが出せないかもしれません」

「大丈夫だよ。ちょうどある」

回避できたらしい。僕は冬森さんにケーキの代金を支払って、一緒に店から出た。

これで不名誉な誤解は回避できたはずだ。店員から見えるようなやり取りだったのだから、僕がなんかダメ野郎と思われる事は無かったと思いたい。

31: >>1 2011/03/29(火) 20:13:01.86 ID:NprJWFFv0
「あ! 秋川君、私、大変なことに気づきました」

「大変なこと?」

「このケーキを包んでもらった箱……一つなんです」

「それは見ればわかる……け、ど……」

「一つというのは、問題です」

「……問題だね」

安心した矢先、さらなる問題が発生してしまった。ケーキは二つ。箱は一つ。僕と冬森さんのおうちは勿論それぞれに一軒ずつ。

そして僕らは二人。箱が一つというのは、この調和を乱す大問題と言っていい。

どうやって僕らはこの美味しいチョコケーキを食べればいいんだろう? 勿論、どちらかがどちらかのお家にお邪魔するのは論外である。

というより、どっちが行なっても怒られてしまう。

でも、ケーキは食べたい。そしてこのケーキは最後の二つなので、店に戻って買うこともできない。

どちらかがケーキではなく、割を食わなければならない状況だが、そういうわことにするわけにもいかない。

加えて、ケーキは日持ちしないのが宿命なのだ。

「このチョコケーキ、美味しいんですよね」

「それも、高額商品だね」

「食べたい、ですよね」

「それはもう。甘いもの好きとしてはぜひとも食べたい」

「少し、恥ずかしい思いをするかもしれません」

「我慢するしかないかな」

僕と冬森さんはどうやら同じ考えを閃いたらしい。僕も冬森さんもケーキを食べることができて、少し恥ずかしい思いをするかもしれない危険性を孕んでいる方法。

しかしそれは一応の安全牌だ。背に腹は変えられない。

32: >>1 2011/03/29(火) 20:15:32.31 ID:NprJWFFv0
そんなわけで、僕らが向かったのは公園だった。

この公園はベンチとテーブルが設置されており、やろうと思えば食事なんかがそこで取れる休憩所のようになっている。

壁でもあればいいけど、生憎とあるのは屋根ぐらいなものだ。ここで二人してケーキを食べようというのだから、そりゃ恥ずかしい。

「飲み物も欲しいですよね」

「僕、買ってくるよ。これぐらいは奢る。何がいいかな」

「いいんですか? じゃあ、私はコーヒーで。甘さは任せますね」

「了解。少し待ってて」

自販機もそう離れてない場所にある。僕が買うのも当然コーヒーである。缶コーヒーはあまり美味しくない。

それもブラックは相当美味しくない。缶コーヒーのブラックだけは絶対にいけないのである。なのでこの場合、微糖が好ましい。

僕はコーヒーを二つ買って、冬森さんのところへ戻った。

見ればすでに箱を開封しているところで、冬森さんは鞄から紙皿とコンビニなんかでついてくるプラスティックのフォークを取り出していた。

(なんで携帯しているんだろうとか思うけど、そこは女の子の不思議ということにしておく)

「買ってきたよ。これでようやく食べられる」

「なんだか、思わぬところで食べることになりましたけどね」

何が楽しいのか冬森さんはそう言って笑った。なんだか、僕より先に彼女のほうが僕という異性に対して順応しているように見える。

それでいて、僕がやるような仮面みたいな素振りでもなさそうなのだから、女の子という生き物の底の深さがうかがえるようだ。

自分と似ているから、ということを考慮しても、それでも僕は男なのであるから、もうちょっと壁じみた何かを感じてもよさそうなものだけど。

ともあれ、僕らはようやくチョコケーキにありついた。口の中で広がる甘さと、このほろ苦さがたまらない。

一口食べて、少しコーヒーを口に含んで、また一口食べる。ああ、至福の時だ。クリームが、スポンジが、チョコが。

全てが僕を喜ばせる。たまらず、たちまちにケーキは僕の胃袋に納められた。ごちそうさま。

顔をあげると、僕よりも少し遅れて、冬森さんも同様に完食したところだった。

「美味しかったです、とっても」

「やっぱりマーブルのチョコケーキは最高だね」

「高いんですけどね」

「その分の価値はあったよ」

満足したところで僕らは簡単に片付け、公園をあとにした。これで僕に残されているのは冬森さんを家まで送ることだけだ。

僕はこのとき、夏原を呼ぶことはすっかり忘れていた。彼女はさきほどのケーキの余韻に浸っている様子で、嬉しそうな表情で僕の隣を歩いている。

一方僕は作り笑いを浮かべていた。両者の差は結構大きい。これがもう少し安全な状況なら僕も作らなくても笑みが零れたのだろうけど、少しばかりこれは僕にとって安全じゃない。

知人友人の類に遭遇したくないからだ。それは冬森さんも同様なのだろうが、変に安心しているか油断しているかのどちらかだろう。

33: >>1 2011/03/29(火) 20:18:23.66 ID:NprJWFFv0
「不思議と、秋川君は怖くないんですよ」

「え?」

心の中を読まれるのは、あまり気持ちいいことじゃないな。

「絵本が好きな人に、悪い人はいないと思うんです」

「僕にその考えが当てはまるかどうかは……」

「春野さんが、太鼓判を押してくれました。秋川君は安全だって」

「安全って。……まぁ、そう評価してくれるのは悪く思わないけど」

そんな食品みたいな評価もらってもなぁ。とかそんな気はする。それに春野さんが僕をそう判断する根拠というのもよくわからない。

最近の世の中を見るに、危ない人というのは案外、僕みたいな大人しい人の方が多いような気がする。

見た目からして悪い人は常日頃小さな悪いことをしているから何かしでかしても周りの人の感覚がある程度麻痺しているので、軽く受け止められるが、色々と抑圧してきた人が何かをやらかすとそのギャップから大騒ぎになるという。

これで言えば僕ってば結構危ない人に見られているかもしれない。まぁ、実際のところは人畜無害……だと思いたい。

「秋川君は、どうですか」

不意に、冬森さんが立ち止まった。振り返って、僕を見つめてくる。

「私のこと、どう思います……か?」

冬森さんは先ほどまで浮かべていた、無防備な笑みではなく、どこか緊張したような張り詰めた表情を浮かべていた。なんだか、喉が渇いてくる。

「冬森さんは、怖くない」

僕は言葉を出すのもやっとで、そう消え入りそうな声で言ってから、続ける。

「ただ、誤解は受けたくない」

近いって。なにこの距離感。あと、前言撤回するようだけどすごく怖いですよ。

僕がそんな困ったようなことを言うと、冬森さんは少し慌て、照れたようにしながら距離を開けた。恐らく素だったのだろう。

この子の隠されたポテンシャルというものが少し見えた気がする。おっかない。おっかないとうより、心臓に悪い。

「ご……ごめんなさい」

「いいよ。大して気にしてない。それで、家はどこなのかな。まだ遠い?」

「いえ、ここで大丈夫です。ありがとうございました」

「ん。じゃあ、またあした」

「はい。また、あした。楽しみにしていますね」

そう言って、冬森さんは笑顔で駆けていった。僕も着た道を戻り、帰路へつく。

37: >>1 2011/03/30(水) 23:02:29.39 ID:dLQ/FbAK0
さらに二週間ほどたった。

絵本部の活動も充実しており、期末テストも終わった。

めでたく夏休みに突入するかしないかぐらいの、さらにいえば学校が半日になったりして楽な時期だ。

イラストの方もすでに何点か終わっており、冬森さんの書く物語が完結して、それを僕が描けばめでたく絵本は完成となる。

もっとも、そのあと印刷したりという作業は残ってこそいるが、そこは今考慮するべき点ではないだろう。

夏休み明けすぐにある文化祭が今から待ち遠しい。もっとも、全てが上手くいけばの話なのだが。

「毎日暑いわね。それで、進行具合はどうなの?」

そこに、春野さんが唐突に部室に入ってきた。制服を少しばかりだらしない格好に崩し、団扇で扇いでいる。

教師が見たら彼女を失望してしまうだろうが、まぁ、女子はベストなんかもこの季節に着込む必要性があるものだから、気持ちはわかる。

「春野さん。まぁまぁ、ボチボチだよ」

僕がそう答えると、春野さんは満足げに笑みを僕に投げかけて、冬森さんにちかづいていった。

たちまちにヒソヒソ話が始まったが、まぁこれも女の子の生態というやつだ。僕はノータッチでいたほうがいいだろう。

余計な厄介事を背負う必要もない。僕は描きかけのイラストに向き直り、再び鉛筆をとった。

このイラストの完成も数日かかるだろう。冬森さんの描写するシーンを事細かにかきいれたら何やら大変なことになってしまったのだが、まぁ夏休みに入るまでには終わると思う。

これでまだ中盤なのだから恐ろしい。でも、実際の絵本にしてページ数を数えれば平均的なソレになるらしいのだから不思議だ。

絵本と言うのは思ったよりも作るのが大変なようだ。さらにいえば今描いているので本決まりというわけでもない。

いくつかストーリーが変更されるかもしれないし、描写も違ってくるかもしれない。

その都度僕は描き直すことになるのだから気が遠くなりそうだ。でも、一枚完成すればそれがボツっても後々に使いまわせるのだから大して気にしないし、着色の段階に入ってからボツになることもそうそうない。

今までも没イラストは何点か発生してきたがどれもラフ段階だったりするのがほとんどだ。気楽にすすめられる。

「暑いなぁ……。よう秋川」

「夏原。珍しいね。部に出るのは」

本日二人目の乱入者が入ってきた。彼もまた制服をだらしなく着ていて、少し見える腹筋やらなにやらがさらに暑苦しい。

本当に頭数に自らをいれてくれただけの夏原は部に出ることなんてついぞなかったが、今日はどういうわけだか出たくなったらしい。

38: >>1 2011/03/30(水) 23:04:30.06 ID:dLQ/FbAK0
「秋川のおかげでテストも万事問題なく進んだよ」

「それは良かった。教えた甲斐があったよ」

夏原はじつに上機嫌そうに適当な椅子に腰掛けた。彼にとってここは暇だろうに。何がしたいのかわからない。

わからないから、ちょっと怖い。大方ロクな事思いついてないんだから。今日は格闘技かなんかの稽古が休みなのか、また辞めて少し暇なのか。

どっちかはわからないけど夏原に暇を与えると絶対イイ事は起きない。段々嫌な予感は強まってきた。

絶対、何かやらかすか言い出すかに決まってるんだ。

僕がそんなことを思っていると、夏原がおもむろに口を開いた。

「もうすぐで夏休みだよな」

「グータラできるよね」

「そんなことでどうする」

夏休みはグータラするものだ。グータラしつつ、たまに‘ジュピトリス’のチョコ・サンデーを美味しくいただくのがセオリーってもんである。

飲み物はコーヒー。ブラックでお願いしたい。ああ、いいなぁ。それ。そうやって過ごそう。

「合宿を提案する」

「却下」

「海に行きたい。行かせろ」

「絵本部として行く必要は?」

「あ。ないな。すまん、なかったことにしよう」

(珍しく)回避成功である。僕を巻き込むのは勘弁してもらいたいのだ。

「でも一人でいくのも物悲しいな。メンツを揃えるか……」

「あ。なら、私行く。メンツ次第だけど。雪花はー……これないわね」

「私は肌が弱いので、遠慮しておきます」

かくて、絵本部における健康的な方は海行きが決定したらしい。

もとより頭数とサポートの人たちなので、僕達がそれについてとやかく言う権利はないだろう。

それにしても、夏に海で集団でなんてリア充の極みな夏休みを送るつもりらしい。なかなか遠い世界だ。

「それにしても夏休み、か。僕らも数回は顔をあわせないといけないよね」

そうしないと絵本は進まないし。何を当然のことを、って感じなんだけど。

「そうですね。何回かは学校にこないといけません」

「じゃあ、週一ぐらい集まろうか」

「そうですね。それがいいです」

39: >>1 2011/03/30(水) 23:07:00.79 ID:dLQ/FbAK0
こちらの夏休みも決まった。僕は絵を描きながらグータラするのだ。夏休みの正しい姿だよね。素晴らしい。

「えっと。じゃあ、今日はこれで終りにしませんか」

冬森さんのそんな鶴の一声で、本日はこれで解散することになった。

夏原と春野さんはこの後用事ができた、ということでさっさと帰っていったので、僕と冬森さんがまた二人になってしまった。

半日なので家まで送っていけ、とは言われなかったけれども。

「ジュピトリスにでも寄ろうか?」

「いいところを知っていますね。あそこは、やっぱり」

「チョコ・サンデーだね。正直、今、あれが猛烈に食べたくてしょうがないんだ」

「ですよね。美味しいんですよね、あそこのチョコ・サンデー」

こういったことになると、人が変わったように食いついてくる。気持ちはわからないでもないし、同志であるのだし気にすることはない。

問題は、なんで僕と二人なのだろうかという点なのだが、もう気にしないことにした。なんてったってチョコ・サンデーだ。魅惑のサンデーなのだ。

足取りは軽く、その戦艦じみたネーミングの店に向かうことにする。

そんなわけで、僕らは‘ジュピトリス’にやってきた。平日であるからか人はそうそういない。好都合だ。

僕らは適当な席(出来るだけ人目につかない、窓から離れた場所だ)について、丁度通りかかった店長にチョコ・サンデーを二つ注文した。

このお店はその ‘ジュピトリス’というネーミングから、その手の人が話のネタによく入ってくるのだとどこかで聞いた。

さりげないところにおいてあるその手のプラモデルがなかなか多いところから、店長も開き直っているようだ。というより、狙ってやったのだろう。

「秋川君は知っていますか?」

「いや、何が」

知らないとしか答えようがないと思うのだけれど。言葉がやや足りないのは冬森さんのクセか何かだろうか。

率直すぎると言うのか、思ったまま言うというか。

「ああ、ごめんなさい。このお店、ロボットのプラモデルが多いですよね? 秋川君なら何か知っているんじゃないか、と思って」

まぁ、女の子という生物である冬森さんに、一昔前のロボットアニメがわかっているほうが不思議だろう。ゲーム化されて、僕みたいないわゆる‘ゆとり’という世代でもわかるぐらいだからかなり有名どころなのだが、これが性別の隔たりというやつか。

「ジュピトリスの名前がね、ロボットアニメに出てくる戦艦の名前なんだよ」

「戦艦、ですか。木星みたいな名前ですね」

「それが元になってるみたいなんだけどね」

木星船団の船なんだよ、とまでは説明しないでおく。意味がないし。とりあえずは、木星にしろ、戦艦にしろ、こういうお店の名前には向かないだろうというところか。

それでもこれにした店長は狙ったとかじゃなく、ひょっとしたら本気で好きなのやも。

40: >>1 2011/03/30(水) 23:09:09.30 ID:dLQ/FbAK0
とまぁ、そんなことはどうでもいい。今の目的はチョコ・サンデーだ。

木星帰りの可能性がある店長が運んできてくれたので、早速食べ始めよう。

スプーンを手にとって、クリームとチョコアイスを掬って口に運ぶ。

舌の上で溶け出すそれらは甘味と苦味が交互に交わるように口内に広がっていき、なんというか、もう天国だ。

「やっぱりここのは美味しいですね」

「全くだよ。毎日だって食べたいぐらいだけど」

「同感ですけど、そうすると色々不都合が……」

「まぁ、カロリー摂取量はうなぎのぼりだろうね」

女の子にとっては死活問題だろう。古今、女性は甘いものが好きだが体重を気にかけなければならないという葛藤と戦っているものらしい。

負けた者は同じ女性から見た場合、敗者と見なされる。学生であれば、所謂スクール・カーストというものが何ランクか下がるものらしい。

つくづく生きづらそうだね、女の子って生き物は。その分、特権はあるみたいだけど。そこを羨ましい、といっていいのかとなると少し微妙かな。

「あの、絵本のことなんですけど」

しばらく黙々とチョコ・サンデーを食べながら、ドリンクバーのアメリカンコーヒーを堪能していたところに、すでに半分ほど食べ終えた冬森さんが口を開いた。

口周りのチョコについては、少し面白いので今は指摘しないことにする。

「その。……上手くいくと、思いますか?」

「思う思わないに関係なく、やっぱり、やらなきゃいけないんじゃないかな」

「で、ですよね。完成させないと、いけませんもんね」

そうでなきゃ、部を発足させた意味も無い。幸いに冬森さんは致命的に遅筆という性質でもないらしい。

今のところは順調に進んでいるし、僕の絵だってそれなりの進展をしている。まだ冬森さんのソレに追いつくほどまでに進まないが、焦ることは無い。

「そ、そうだ。あの、よければ、絵を一点、くれませんか?」

「絵? 白黒のボツイラストでよければいいけど」

急に変なことを言い出す。僕の絵はどのみち、見慣れるようなものだと思うんだけど。まぁ、欲しいといわれて悪い気はしない。

「嬉しいです。是非!」

「そんなに面白いものでもないけどね」

41: >>1 2011/03/30(水) 23:10:18.20 ID:dLQ/FbAK0
鞄から適当な具合のボツイラストを一点、冬森さんに手渡した。食べかけのチョコ・サンデーに触れないよう極めて慎重に。

「わぁ、ありがとうございます。帰って、ゆっくり見ますね」

「そうだね。溶けるし、これ」

溶けてしまっては美味しくないので急いで食べることにする。ああ、甘いものは無限の可能性を秘めているね。

とくにチョコとかクリームは素晴らしい。人類を救いつつ、人類を破滅に導くものだろう。悪魔の食べ物である。いやはや素晴らしい。

食べ終わって、会計を済ませた僕らはそのまま店の前で別れた。

次の部活は夏休みの二日目。若干の間を置くのでそれまでに久しぶりに長々とゲームに勤しむことができそうだ。

46: >>1 2011/03/31(木) 20:59:09.20 ID:fHikxmWh0
タロンシャダー!

では投下します。

47: >>1 2011/03/31(木) 21:00:55.26 ID:fHikxmWh0
時間の巡りは早く、積んだゲームは全然崩れない。

仕上げていない絵を仕上げたり、ゾンビの頭を吹っ飛ばして喜んでいる内にどんどんと時間は過ぎているのである。

そんなこんなで、時間を無為にしながら今日まで過ごしてきて。今日が約束した活動日である。今日は夏原や春野さんの乱入は休みにまでくる必要が彼らには無いので見込めない。

完全に二人きりでこなさなければならないわけである。今までも似通ったようなものだったが、どちらかの乱入の可能性が必ずしもゼロというわけではなかった。

今回は完全なゼロなわけで、自ずと緊張もしようと言うもの。学校へ向かうこの足がいつもより重く、鈍く感じるのも自然なものだろう。

しかし気揉みしていても現実は変わらない。変わらないので、今日も頑張ることにする。

元気良く走る運動部員らとすれ違いに校門を潜って昇降口、靴を履き替えて、宛がわれた我等が部室に。

鍵が開いていたので、すでに冬森さんが来ているらしかった。まだ開始予定時刻より10分も前なんだけど。

「おはよう、冬森さん」

「おはようございます、秋川君」

とりあえずは入って、挨拶。鞄を適当なところに下ろしていつもの画材用具を取り出す。

冬森さんはすでに机に向かってお話を書いている真っ最中であるらしい。物語もそろそろ中盤から終盤へ移行する。

肝心要の部分であるので、僕も気合を入れてやっていきたい。

「これ、決定稿です。お願いしますね」

「ん。わかった。今のを描いたら、これになるかな」

手渡されたソレを受け取って、失くさないようにファイルに挟む。

言わばこれは絵本の命なわけで、まさかぞんざいに扱うわけにはいかない。

「もうそこまで追いついてきているんですか?」

「うん。一応何回か吟味したりしてるんだけどね。結構、追いつけるのも早かったかな」

「そうですか。私も頑張らないといけませんね」

冬森さんはそう、驚いたような顔をしていた。そんなに早いつもりもないのだけれど、もう少し遅いものだと思われていたのだろう。

粗末な仕事をしている覚えは無いし、気にすることは無いのだけれど。とりあえず、描きかけのこれを仕上げていこう。

48: >>1 2011/03/31(木) 21:03:32.70 ID:fHikxmWh0
さて。思えばこの部室には冷房と言えるものがない。窓は開けているけど風なんか入ってこなく、暑苦しい。

朝から昼まで作業をこうして続けているが、汗が用紙に垂れないようにするのにも結構苦労する。七月も終りとなれば最早夏本番。

とてつもなく暑苦しく、そろそろ溶けてしまいそうなのだが……。

どうにもこうにも、鉄の意志といえばいいのか、頑張っている彼女を見ると自分が先に音をあげるわけにもいかず、頑張るしかない。

それにしても、タフだなぁ。女の子って。

ぐらり。

そんな擬音が本当に聞こえるぐらい、冬森さんが真横に落ちるまでは割と本気でそう思っていた。

というより、気づこうよ僕。それと、日射病になるぐらいまで何をそんな意固地になっていたんだ冬森さん。

床に転がるように倒れた冬森さんをとりあえず保健室に運ぼうとして、ふと気づく。どうすればいいだろう?

キング・オブ・非力な僕がどうして人を持ち上げることができよう?

さらにいえば僕が女の子に触れるというのもなかなか勇気がいる。しかし都合の良い人材は今のところ存在しなく、状況が状況だけに急を要する。

人を呼びにいく間、ひいてはこうして考えている間にさっさと連れて行ったほうがいい。

応急処置の方法もいまいちわからないときたもんだ。

結局のところ、一つのシンプルな答えにこの問題は帰結する。僕が彼女を抱きかかえて保健室に向かうしかない。

他に方法らしい方法がないのだから、仕方が無い。

「よっ……と」

所謂横抱き。気恥ずかしいものがあるが、仕方が無い。おぶるのは意識がない人相手では無理だ。

というより、これでも冬森さんは軽いのだろうけど筋力と言う筋力が無い僕じゃものすごく重く感じる。

脱力した人間は重いものらしいが、それの典型だろう。腕が悲鳴をあげるが、気にしている場合ではない。

彼女を抱えたまま保健室に向かう。運良く先生がいるらしく、鍵は開いていた。中には、保険医の先生と髪の長い眼鏡の女子だ。

リボンの色からして先輩らしい。

「うぉ。何その王子様状態」

「茶子さん。怪我はもういいでしょう。そっちが急患らしいわね」

「は、はい。日射病か何からしくて。急に倒れたんです」

「そう。じゃあとりあえずそこに寝かせて」

言われたとおりに冬森さんをベッドに寝かせてやる。すぐに先生が氷嚢だのなんだのをもってきた。

手伝えることは言われるまでなさそうなので、先生に任せることにする。

「しかし、なんだね。キミ。なかなかかっこいいことするよね」

眼鏡の先輩が話しかけてきた。冬森さんや春野さんでいっぱいいっぱいな僕が思わず引くと、彼女は面白くない、といった様子で眼鏡をかけなおした。

「反応がウチの藤井君とそっくりだね。ナニ、友達?」

「藤井君と知り合いですか?」

確か同じクラスの人だったと思う。僕と同じく消極的な人だったので印象に残っている。

こんな少し押しの強そうな人と知り合いだというのは知らなかった。最も、あまり話したことはないけど。

「だって後輩だからね。彼は」

「はぁ……」

49: >>1 2011/03/31(木) 21:05:26.41 ID:fHikxmWh0
そうですか、としか言いようが無い。

春野さんや冬森さんで多少の女の子耐性がついてきたとはいえ、苦手なものは苦手だ。それに、初見なものだから尚更だ。

「やれやれ。そこまで露骨に避けられるとさしもの私も傷つくね。藤井君に慰めてもらってくることにするよ。じゃね」

藤井君、そんなキャラだっけ?

もっと内向的な人だと思ったんだけど。あの先輩なりのジョークなんだろうか。僕がそう考えている間に彼女はさっさと保健室を出て行った。

確か藤井君は手芸部で、それの先輩なんだから手芸部として活動しているんだろう。

夏休みでもチクチクとお裁縫をやるというのだから、文科系の部活もなかなか努力家といえよう。

運動部や、吹奏楽部のように気合の入ったところはなかなかないにしても、だ。

「そんなにひどくはないわね。少しクラっとして、そのまま寝てしまったんでしょう」

「寝て?」

「大分寝不足なんだと思うわ。日射病には変わり無いけど、気絶するほどひどい症状じゃないし。まぁ、身体弱そうだものね。君もだけど。何部だっけ?」

「絵本部です」

「ああ、絵本部。新設された? 頑張るわね」

寝不足。これが単純な単語であればいいが、大体僕が寝不足になるというのはひどく不安になったり、何かひどく怖いことがあるときだ。

僕と冬森さんは似ている。だからといって何もかも同じというわけではないが、この辺りは似通っていてもおかしくない。

杞憂にすぎないと考える方が無難なのだろうけど、何ともいえない胸騒ぎがする。

今現在、冬森さんがそう不安になったり、怖かったりすることとはなんだろうか?

考えても結論も、答えの出るわけの無い命題なわけで。僕はこういう、出口の無い迷路のような考えが一番不安になる。

考えれば考えるほどドツボなわけで、今はやれることをしたほうがいい。

いいつまでも保健室にいくわけにはいかないだろうし、僕は後を先生に任せて部室に戻ることにした。

とりあえず、僕にできるのは絵を描くことなんだ。

50: >>1 2011/03/31(木) 21:07:37.48 ID:fHikxmWh0
部室に戻った僕は、すぐに絵に戻ろうとしたのだが、ふと彼女の原稿に目がいった。

どこまで書けているのだろう? ストーリーもそろそろ終りを迎えるわけで、まだ書きかけらしいそれを、悪いとは思いつつも僕は覗き見た。

カフェオレの海に落ち、お菓子の世界に紛れ込んでしまった女の子。彼女を誘導するのは一匹のウサギ。

消えては現れ、彼女が迷うたびに姿を現す。やがて女の子はチョコレートの町並みを通って、生クリームの宮殿にたどり着く。

僕が知っているお話はここまでで、目の前の原稿はそれからの続きである。

そこでは女の子が、そのお菓子の王様ウサギと謁見するところだった。女の子は言う。

「王様。どうか、私に長い耳と尻尾をつけてください。私は、この世界にいたいんです」

お菓子の世界。そんなものがあるとして、僕はその世界にいたいだろうか?

なんだか、この女の子の発言は不自然に思えてならない。何か得体の知れない焦燥感に駆られ、胸が早鐘を打つ。

僕はそれから逃れるように、絵に没頭することにした。とりあえず、渡されている分があるんだ。

冬森さんを待つなんて造作もないことだ。僕は自分にそう言い聞かせながら、ペンを持った。

線が歪み、バースが狂う。それでも、描いている内は何も考えなくてすむように思えてきて、次第にラクガキが増えていった。

なんとなく、その方が落ち着くような気がしたからだ。

落ち着き、自分で納得のいくものが描けるようになって、どうにか一点ほど描き終わったころには、もう夕方になっていた。

暑さも昼間と比べてやや和らいで、琥珀色の日差しが教室に降り注いでいた。この分ならば明日もよく晴れるだろう。

明日は活動しないだろうから、明日もまたゾンビの頭を吹っ飛ばして喜ぶような自堕落な生活が始まることになる。

冷房もがんがんにつけてやるんだ。

「秋川君」

不意に、背後から声がした。冬森さんの声だ。どうやら気がついたらしい。

僕はどこかほっとしたような笑みを浮かべて振り向く。驚いたような、困惑したような表情の冬森さんがそこにいた。

まさか待っているとは思っていなかったのだろう。

「あの、その。ありがとうございました。倒れた、みたいで」

「いいよ。でも、気をつけないと。大丈夫?」

「はい。身体のほうはすっかり。少し、無理しすぎたみたいです」

俯いて、唇をかむようにして搾り出すような声。

単純に申し訳なく思っているんだろう、と切り捨てることはなんとなく出来なかった。

何か含みのあるような、まるでこれからのことを謝っているかのような。何とも形容しがたいものを感じた。

だからといえ、ただの僕の感覚をまさか口に出して伝えるわけにもいかず、僕は当たり障り無いところで返答した。

卑怯なのかもしれないが、僕はそう口が達者じゃない。

「ん。そっか。今日は、もう帰る?」

「そうですね。こんな時間ですし。ロクに進めることもできなくて、ごめんなさい」

51: >>1 2011/03/31(木) 21:09:10.97 ID:fHikxmWh0
心底申し訳なさそうに彼女が頭を下げる。僕にとってまるっきり無駄だったわけでもないし、夏休みは長い。さりとて気にすることもないはずだ。

「いいよ。それより、送っていこうか?」

「大丈夫です。それに、今日は少し寄りたいところがあるので」

「わかった。じゃあ、次はまた来週の今日かな」

「はい。そうしましょう。さよなら、秋川君」

「うん。さよなら、冬森さん」

よほど急ぎの用だったらしい、やや小走りに鞄を引っつかんで出て行った。

寝ている間に、何か約束事があってその時間が今まさに迫っている……という状況が考えられなくもないし、そこが妥当な線だろう。

物事を最悪の事態に考えていけばいくらでも考えられるし、底は見えない。

無限にネガティブになれるので、無難なところを考えていくのが一番いい。

なので気にはせず、僕も帰ってゲームの続きがやりたかったので描きかけのその絵をしまって、帰路に着いた。

夜。

僕が家で呑気に世界を救っていると、不意にメールが来た。

勇者には一時その場で止まっていてもらうことにして携帯電話を見てみれば、冬森さんからのソレ。件名は無し。

内容は「今日は本当にありがとうございました。次回についてですが、都合によって順延にさせてください。できる日があれば追って連絡します」といったもの。

話を書くのに詰まったのだろうか。最も、もう話も終盤も終盤。

彼女がどう終わらせるのかはわからないけど、もう殆ど終わっているようなものだろう。

僕は「了解」と返信して、再び世界を救う旅に戻ることにした。

世界の半分が僕のものになった。クリア。

55: >>1 2011/04/01(金) 21:01:38.15 ID:OpoHLyR10
冬森さんからのメールがこないまま、三週間近く経過した。

流石に渡された分は全部描き上げてしまっているし、なにより夏休みの終りがいい加減見えてきた。さらに言えば心配にもなる。

何かあったのか聞こうと思ったけど、変なプレッシャーになってもまずいとそれもできずにいた。焦燥感だけが募っていくなか、無情にも時は過ぎていく。

文化祭までは夏休み明けからまだ一週間は猶予がある。まだ時間はある。まだ。しかし、それにしたって、モノが完成しなければどうにもならない。

冬森さんが一体どういう状況にあるのかどうにか知りたかったけれど、彼女と一番親しいであろう春野さんのアドレスは知らず、夏原は論外だ。

彼がその手の事情を知っているなら僕に知らせるだろう。結局のところ、僕にできるのは待ちの一手。

いくら僕が焦ろうと気を揉もうと、それは何物にも影響しようがない。

僕は己の不安に上書きするように積もった課題を崩し始めた。鳴りもしない着信音が聞こえるように、机の上に携帯電話を投げ出して。

ついには、何の連絡がないまま夏休みは終わってしまった。

始業式の今日、本人に聞こうとするも本人を見つけることはできなかった。

放課後、僕と春野さんはお互いを見合わせて言った。

「雪花はどうしたの?」

「冬森さんはどうかしたの?」

「知らないの? 秋川君」

「春野さんこそ、知らないんですか?」

「なんだ、二人とも」

そこに夏原が話に加わったが、三人が三人とも、冬森さんの動向を知らなかった。

さらにいえば、春野さんもずっと連絡がつかないらしい。とりあえずは、春野さんが今日、冬森さんの家に向かい、確認してみるとのことなので僕らは引き下がることにした。

目に見えて動揺している僕に夏原が何か言っていたハズだが、僕の耳にソレは入ってこなかった。

順調に見えた、この絵本部に何か問題が発生している。

ゴールである、文化祭での部誌の販売。これが根本的な部分でできなくなろうとしているのだ。

しかもそれは、僕の力ではどうにもならないこと。

僕はどうにも気分が悪いような気持ちで、全身が冷たくなるような錯覚の中、何も出来ず、非力な己を悔やんでいた。

僕は今日一日、どうにも落ち着かずに、眠れない夜を過ごした。

何をしても、心臓を押しつぶすように不安の念が押し寄せてくる。

僕はどこかで何かを間違えたのか?

56: >>1 2011/04/01(金) 21:03:07.03 ID:OpoHLyR10
翌日。

教室に冬森さんはいたのだが、どうにも暗く沈んでいるように見えた。

そのせいでなかなか話しかけることができず、春野さんも少し困ったように僕に話す。

「ごめんなさい。こればっかりは、私も力になれない。夏原君もね」

「一応は、同じ部員なんだがな。何もできない、か。歯がゆいな」

「あの、冬森さんは一体?」

「本人に聞くのが一番ね。放課後、部活に誘う感じで話してみたら? 私は離れているわ」

「なら俺も秋川とはやや距離を置いたほうがいいだろう。あの様子なら多分参加したがらないだろうから、昇降口で待つことにする」

「わかった。そうしてみるよ。ありがとう、二人とも」

クラスは文化祭の話でもちきりだった。

八木東高校の文化祭はやや特殊で、夏休み明けに大した間を置かないのと、クラスでやるものはなく、各種部活動で何かをやるという形式である。

部活に入っていない人は、やりたいんだったらどこかしらの所に参加するという感じだ。

完全にただ見て回るだけの人も勿論いる。開催は今週の日曜、7日。予定ならばもう絵本は印刷待ちという段階なのだが、まだ製作段階にいる。

これは、マズい。とてもマズい。焦燥感は日にちに増して僕を苦しめる。

冬森さんもそれは同様のハズで、お話ができていないというのが余計苦しめているハズだ。

どうにか、しなければ。でも、僕に何ができるんだろう? 彼女にとって僕はなんだ? 僕にとって彼女はなんだ?

57: >>1 2011/04/01(金) 21:05:58.02 ID:OpoHLyR10
放課後。

そそくさと逃げるように帰ろうとする冬森さんに声をかけた。

僕の出現に、冬森さんは心底困ったような、怖がっているようでいて、悲しそうな様子でもあった。

複雑な感情が混ざり合って、溶けてしまったようなそんな顔だ。僕は、どこか後ろめたいものを感じながらも口を開く。

本当にもう、時間がないんだ。

「冬森さん」

「あ、秋川君」

「部活に行こう。文化祭まで間も無い。絵なら安心していい。すぐにでも描き上げてみせるから。冬森さん。ただ黙っているだけじゃダメだ。何か、しないと」

僕がそう言うと、冬森さんはまるで泣きそうな顔をして。

「ごめんなさい」

そう言って、僕を突き飛ばして駆け出した。軽い僕は女の子に強くぶつかられると結構飛ぶらしい。

変に冷静にそんなことを考えていると、見る見る内に彼女は視界から消えていった。嫌な予感が的中すると、驚きもでないものらしい。

でも、とにかく。僕は追いかけることにした。逃げられて、堪るか。冬森さん。逃げていちゃダメなんだ。

僕らは、絵本が描きたいから、怖くて堪らない異性という互いの関係を無視してまで一緒の空間にいることを望んだんだ。

その勇気を無為にされたくない。絵本は完成させないとダメだ。二人の信頼に背くことになる。

夏原にしろ、春野さんにしろ、いい顔はしないだろう。

自然と僕の足に力が入り、やや遅れて彼女を追いかけた。思わず呆然としている場合ではない。

どこに向かうつもりかしらないけど、逃げ場所なんて無いハズだ。だから、走る。

本当に、僕らしくない。僕が女の子を見つけて、その腕を掴んでやろうと考えているんだ。

逃げるのではなく、追う。昔の僕ならば考えられなかっただろう。僕は変わったのだろう。

だからここまで必死になれる。本気で何とかしなければと行動できる。

昇降口にたどり着くと、焦った表情の夏原に出くわした。彼のこんな顔は、あまり見られない。余程、彼女の勢いが強かったのだろう。

「秋川! さっき冬森が」

「手伝って。一緒に手分けして探して」

「わかった。じゃあ春野も呼んでくる。お前はそのまま行け」

言われずとも。冬森さんが走っているなんて余程見ない光景だ。夏原がすぐに追いかけられなかったのも無理はないし、責めるつもりはない。

手伝ってくれるだけでもありがたい。それに、責めたところで早く冬森さんが見つかるわけじゃない。

彼女にあまり長い間走っていられる体力は無いだろうし、大分遅くなってきているハズだ。追いつける。とにかく走る。

肺が潰れようが、足がひしゃげようが。僕は彼女に追いつかなければならない。

校門を抜け、学校の前の道を駆ける。息がもう辛くなってきた。

「もっと早くに走ってれば」

自分のノロマさが嫌になる。見失ってから追いかけたのではそれじゃ遅すぎる。

冬森さんの背も見えないまま、僕の体力が先になくなっていた。思わず足が止まる。

情け無い、止まっている暇はないと己を叱咤し、僕はすでに棒になっている足を動かした。息も荒い。口の中にじんわりと鉄の味が広がってきた。

でも気にしていられない。

58: >>1 2011/04/01(金) 21:09:18.93 ID:OpoHLyR10
気がつけば、市内の中心部にたどりついていた。

冬森さんの姿がまだ見えない。ここまで走って見えないなら、見当違いの場所にいるのかもしれない。

冬森さんの場所がわかって走っていたわけでもないんだ。その可能性は十分考えられる。

一旦、夏原と連絡を取ろうと携帯電話を取り出そうと――そう、したとき。

はっきりと、彼女の姿が見えた。ビルとの隙間にある、細い路地裏。黒い影が彼女を取り囲むようにしている。何やらひどく揉めているらしい。

言葉は聞えてこないが、彼女の表情が恐怖で強張っているのがわかる。彼女を取り囲む影について僕の脳は認識を阻害した。認めたくないらしい。

僕がしようとしている行動に、全力で反対しているらしかった。

でも、行動に移さなければ僕は一生を後悔し、絵を描くことなどできなくなるだろう。

そんなの、嫌だ。夏原に連絡したら、向かわなければはならない。どんな結末になろうとも。

携帯を開いて、夏原を呼び出す。彼が出たのを確認して、こう言った。

「夏原。用件だけ言うね。末松ビルの間にいるよ。骨は拾ってね」

返答を聞かずに携帯を切る。

僕は、ギリギリまで警鐘を鳴らす脳を無視して、冬森さんのところへ向かった。

話してほしいことが、沢山ある。話してやりたいことが、とてもある。だから、怖がっていちゃいられない。

骨は、夏原が拾ってくれる。心配することは何も無い。僕は、息が少し整うのを待って、路地裏に歩を進めた。

「僕の連れに、何か御用でしたか」

僕が声をかけた黒い影。それは、とても恐ろしい三人程の不良たちである。

かっこいいのかどうか知らないけど、髪を金に染めて、ピアスに、変な模様がぶら下がったネックレス。服装はだらしない。

よく見ないと同じ学校だともわからないほどだ。なるほど、異種たる人間だろう。敵いそうに無い。

「お前には関係ないだろ。引っ込んでろ」

その内の一人に、いいのを顔にもらった。思わずよろける。でも、まだ倒れない。冬森さんを逃がすまでは、倒れない。立ち往生が理想系だろう。

「秋川君!?」

冬森さんが眼を白黒させて、どうしてここにいるの、といった様子で声をあげる。

でも、今の僕はそれを返す余裕はない。僕は、君の身代わりにきたんだよ。助けるため、とは言い切れない。

君を逃がすため。そのためのスケープゴートに僕はなりにきた。

59: >>1 2011/04/01(金) 21:11:05.17 ID:OpoHLyR10
「耳が聞こえませんか? 僕の連れだと言ったんですよ。だからその汚い手をどかしたらどうです?

日本語わかりますか? わかりませんね、だかわわかるように言ってあげます。さっさとどこかへ行けと言ってるんですよド低脳」

今まで使ったことのない、汚い罵詈雑言の類。聞き慣れてはいるが、言うのは思えばひどく久しぶりな気がする。

噛むこともせず、自分でも驚く程すらすらと言葉が出た。僕よりも驚いたのは彼らだ。明らかにひ弱な目の前の人物が、思い切り挑発してきている。

今までにない経験だったはずだ。

だからだろう。冬森さんの肩を掴む一人の腕の力が緩んだのを僕は見逃さなかった。冬森さんを強引に突き飛ばし、逃げるように促した。

でもできたのはそれだけだ。冬森さんが路地から出られたのかどうかわからないまま、僕は気づいたら地に伏していた。

何か聞こえるが、それ以前に身体を打つ音の方が大きいので聞こえやしない。

全身が痛いおかげでどこが痛いのかわからず、そもそも痛いってなんだとゲシュタルト崩壊する勢いだ。

視界は黒いのか赤いのか。とりあえず、まともな景色が見えていないことは確かだ。

自分がここまで冷静に見えているのが不思議なぐらいだが、多分意識が遠いか、すでに抜けてるんじゃないかな。

ひどいもんだ、立ち往生したかったのに、有無を言わさずに倒してくるなんて。

「そこまでにしておけよ。そんな柔らかいのをサンドバッグにしても強くなれんぞ。ちょうどよく、ここに対戦相手がいるわけだが、一つどうだ」

声が、聞こえた。低いが、よく通る、力強い声。まるで軍神のソレ。

「ああ――答えは、聞いてない」

誰だったか。顔を見ようとして、その前に、意識を手放した。

65: >>1 2011/04/02(土) 21:02:20.96 ID:E8E9vU700
気がつけば病院のベッドの上。知らない天井だ、などと喜ぶ前に身体に電撃の如く激痛が走った。

冗談じゃない。なんだってこんな目に。寝起きにスタンガンなのか。

「よう、起きたか色男」

僕を覗き込むように見知った顔がそんなことを言った。色男とは何の比喩か。

気にはなるが、意味を聞くのも癪なので僕も軽口で返す。

「なんだ、夏原か。僕がここにいる理由を想像するに、多分僕の乗機が大破したんだね」

「そんなボケをかませられるなら上等だ。それにお前は絶対後方任務で、それも広報か補給課だろうな。機体なんか最初から回ってこないね」

カミカゼも許されないらしい。補給部隊も危険だと思うけどね。

「まぁなんだ。大事に至る前に俺がきたことを感謝しな」

「気絶するほどやられたんだから、些事だとは思えないけど」

「骨が折れてないんじゃ、大事じゃないね。一度経験したほうがいい」

「できれば経験したくない」

あんだけ蹴られ殴られして折れてはいないらしい。思ったより僕の身体は頑丈に出来ているのか、夏原がかなり早かったのか。

まぁ、そういえば足も速かったしね。

「それで、冬森さんは?」

「病室の外にいるよ。あんまりに泣いているんで、春野が珍しく慌てていたよ」

「泣いている? ええと、まさか。考えたくないんだけど」

「怪我も操も散ってない。安心しろ」

「そっか。じゃあ、なんでだろう」

とりあえず、彼女の身に何かあったわけではなくて何よりだ。

突入した甲斐もあったというもの。まぁ、僕は殴られていることしかできなかったけどね。

夏原のおかげだ。それにしても、泣いている、ねぇ。他に冬森さんが泣くような要因が?

「お前も鈍いね。お前が怪我しているからだろ」

「え、なに。僕のせい」

「自分の責任だ、とか。会わせる顔がないだとか言っていたよ」

「あー……逆だったら僕もそう思うかもね。じゃ、入れてくれないかな。話もしたいし。ああ、夏原は外に出ててよ。それで、ドアを固めといて」

「構わんが、怪我の腹いせに暴行に及ぶつもりじゃあるまいな」

「やめて」

66: >>1 2011/04/02(土) 21:07:14.38 ID:E8E9vU700
夏原は愉快そうに笑って、冗談だと手をひらひら振って病室から出た。

入れ替わるように、冬森さんが入ってきた。俯いて、どこか表情は曇り、思いつめたような表情。

彼女が泣きながら、謝る――そう、あまりに容易に想像できる。だから、先に口を開いた。

「怪我がなくて良かったよ。女の子が、顔に傷でもつけたら大変だ」

「……でも」

「僕のことはいいさ。このくらい。男なら平気だと、夏原に言われたよ。実際その通りでね、僕にだって見栄も意地もある。このぐらい平気だと、嘯く権利ぐらいはあると思うな」

そう言うと、冬森さんがどこか小刻みに揺れていた。できるだけ泣かないようにとの配慮を篭めたつもりだったけど。僕に女の子を扱うということ事態、土台無理な話で。

「……ですよね」

消え入るような声。前半の部分は上手く聞き取れず、聞き返そうとすると、彼女は自分から言葉を繰り返した。震えた声。涙交じりの声だ。

「怒っているんですよね。当たり前、ですよね」

「怒っている?」

思わず聞き返した。僕が怒っている? そりゃ、目の前でマーブルのチョコケーキ辺りを床に棄てられたら怒るかもしれないけど。

僕が冬森さんに対し怒る理由がない。

「だって、秋川君。男だから、女だから、って、そういう表現。好きじゃないって言っていたじゃないですか。それが、自分から多用しているなんて。怒っている証拠です」

「一般論で言っているだけだよ。それに、多分僕らは怒ったり哀しんだり落ち込んだりしている場合なんかじゃない。

僕らは作らないと。絵本を。僕は絵を描かないといけないし、冬森さんはお話を仕上げなきゃいけない。

女の子は、本当にお菓子の世界から帰りたくないのかな。――多分、書けなくなっていたのも。そこが原因じゃないのかな」

びくりと、今度こそ冬森さんの肩が大きく震えた。恐らくは図星なのだろう。どうしてそれを、といった表情を涙の上に浮かべている。

効果ありだ。あともう一押しで、彼女は頷いてくれるだろう。そうすれば、絵本は完成できるはずだ。

「一部に納得いかなくて、無為に時間が過ぎていく。期日は迫る。――焦る気持ちはわかる。でも、これは僕達でやっていることなんだ」

いやに口が回る。本当なら、こんな前置きを入れる器用さなんて僕は持ち合わせていないはずだったのに。

夏原相手ならともかく、冬森さん。つまりは女の子が相手だ。会話すら難しいハズなのに。

やはり、僕は変わったのだろう。まだまだ、口は動く。

「――だから、僕には、君が必要なんだよ。冬森さん」

絵本は一人じゃできない。

お互いに、両方できるわけじゃないのだから。僕がそう言うと、冬森さんはどこか固まった様子だった。何かおかしかったかな。

直後、ドアの向こうから夏原と春野さんの忍び笑いが聞えてきた。何かおかしかっただろうか?

と自分の発言を今一度思い出してよく考えると、なんとなくその理由がわかった。というか、これはかなり恥ずかしい。

これじゃ、愛の告白じゃないか――

「ああ、ええと。今のは、他意はないよ。純粋な意味でね」

慌てて取り繕う。しばらく固まっていた冬森さんだが、僕の様子を見てクスリと笑った。

彼女の両目にたまっていた涙はいつの間にか乾いており、とても先ほどまで大泣きしていたとは思えない。

「は、はい。ええと、その。本当に、ごめんなさい――言われて、なんだか。また書けるような気がしてきました。

急ぎます。本当に、ご迷惑かけますけど。最後まで、つきあってください」

冬森さんがそう真剣に言う。彼女がまた書けるというのなら、僕もまた描けるということ。それなら、返すべき言葉はもう決まっている。

「勿論」

僕がそう返すと、冬森さんは殆ど泣き笑いみたいな表情で深く頷いた。

ドアの外からは僕の両親が到着したのか、猫を被った夏原と春野さんらと談笑する声がする。

冬森さんもそれに気がついたのかぺこりと頭を下げて。

「じゃあこれで失礼しますね。家で、頑張って書いてきますから。また、あした」

「うん。また、あした」

そう言って冬森さんは病室からでていった。入れ替わりで、両親が入ってくる。

母親は出て行く冬森さんを目で追いながら、にやりと笑う。父親はどこか愉快そうだった。

とりあえずは、僕の怪我を心配するべきなんじゃないかな、親として。

67: >>1 2011/04/02(土) 21:14:16.38 ID:E8E9vU700
それから二日。

怪我は良くなった……とはいえないが絵を描くのに支障にはならない。

学校は文化祭準備期間に突入しており、帰宅部でどこも手伝う気の無い連中はそういう生徒用に配布される課題だけ受け取ってさっさと帰っていった。

僕が絵本部に入っていなかったとしたら、多分そんな感じで過ごしていたのだと思う。

それで、僕が今何をしているのかといえば、勿論部室にてイラストを描いているのだ。

あれから冬森さんは調子を取り戻し、決定稿も何枚かすでに渡されている。内容としては、次の決定稿でラストとなるだろう。

あんな大見得を切った手前、僕も珍しく強気にペンを走らせている。線は大胆に、されど適当にならずに。

以前までのソレから違和感がない程度に急いで描いていく。こういうのも思ったより楽しい作業で、色をつける時も鼻歌を歌う余裕すらあった。

満ち足りた創作活動というやつの典型的なもので、この分なら印刷まですぐだろう。

現に、廊下では珍しく様子を見に来た顧問の先生と春野さんがそのことについて話しているらしい。

未だに顔すら見ていない顧問の存在が気になるが、今は目の前の作業に没頭することにする。

さて。手持ちでは最後になる決定稿のイラストの色をつけている時点でどうにも疲れがきた。時間を見れば3時を過ぎている。

別に自由に帰っていいことにはなっているが、今ここで一人抜け出すのもどうにも気が引ける。

じゃあ、休憩ということにでもしよう。そう思って、ふと見れば作業らしい作業のない春野さんと夏原は飽きもせずずっと話していた。

あの二人が部室に入ってきたの、確か正午辺りだったと思ったんだけど。三時間近くずっと?

いやまさかね。人のこと散々冷やかしていて、一番気があってお似合いなのはあの二人じゃないだろうか。

その際には夏原の身に挑戦者が山ほど……ああ、喜びそうだね。あのマッチョなら。

己の下らない発想に苦笑しつつ、伸びをする。見れば、冬森さんもあと一息といった様子で、最後のシーンを書いているらしかった。

結局、女の子は元の世界に帰ることを望んだのだ。お菓子の世界は素晴らしい。

女の子は夢のような生活を送り、夢のような世界を駆け巡って、ここにずっといたいというのは本心だったろう。

しかし、あるウサギとの出会いでその思いは消えることになる。元の世界にいる両親や友人ら、それにまだ見ぬ未来の自分の可能性。

お菓子の世界に留まっていては、出会うことのない様々な人達。それらの素晴らしさと、この甘い世界に留まることの危険性をそのウサギは示したのだ。

女の子は反発こそしていたが、次第にウサギの熱意に胸を打たれ、帰ることを決めて、王様に頼み込んだ――

こんなところで、僕のこれは終わっている。

「終わりました! これで、最後です」

「よし。なら僕も頑張るかな。何枚になるかわからないけど」

冬森さんが嬉しそうに立ち上がり、僕のところへやってくる。

冬森さんが僕に手渡したソレはお菓子の国という世界の終焉、即ち夢の終り。それと、女の子の新たな旅立ちについて書かれていた。

お菓子の国のような理想郷はどこにもない。目の前に広がっているのは辛く苦しい現実だ。

しかし理想郷のことを夢想していてはいつまでも辛いだけ。目の前を受け入れて、その中でどう自分は生きるか。

理想に近づくことは少なくともできるのだから。そういった内容だ。

あくまでも絵本だから、ところどころは曖昧だし、見ようによってはただの夢オチにも見えるかもしれない。でも、確かに伝わるハズだ。

68: >>1 2011/04/02(土) 21:17:23.59 ID:E8E9vU700
「いや本当、いい話だね。僕の絵が負けなければいいのだけど」

「そんなことないですよ。秋川君の絵、どれも素敵ですから」

「そっか。……じゃあ、期待に沿わないとね」

僕は新しい用紙にペンを滑らせた。これが終わればもう終りだ。実はもう一点描きたいのだが、僕もいい加減疲れてきた。

続けるとなると流石に雑なものになってきてしまうだろうし、今日のところはこの一枚で切り上げることにする。

「秋川君。その、帰りに。一緒に、ジュピトリスに行きませんか?」

僕が描いているところを後ろで見ながら、冬森さんはおずおずとそう口を開いた。

ジュピトリス、なんと心ときめく言葉か。店名の元ネタを考えると、やや物騒な単語ではあるが。

疲れた身体にジュピトリスのお菓子とは最高の癒しだ。9月に入ったとはいえ残暑が残っている今、冷房の効いた空間でお菓子とコーヒーというのは最高の贅沢だ。

僕は思わず顔が綻びそうになるのを隠して、大きく深く頷いた。それを見て、冬森さんを楽しそうに笑う。

この前の泣きそうな顔よりも、冬森さんはこちらの方が似合うと思う。

「いいね。疲れも飛びそうだ」

「迷惑かけたお詫びに、奢りますよ」

「まさか。流石にそういうわけにはいかないよ。体裁的に。女の子に奢られる男なんて、ダメ野郎そのものじゃないか。まぁ、ある意味では正しいんだけどさ」

「あっ……と、ごめんなさい。気が利かなくて」

冬森さんがしゅんとして俯いた。僕は苦笑して顔を上げるように促した。

なるほど、夏原から聞いた小動物じみているとの評価は冬森さんにきっちり合っている気がする。

それを言えば僕もそうなってしまう事になるが、それは実感できないのでこの際置いておく。

「いいよいいよ。ジュピトリスに行くのは賛成だしね」

「ですよ、ね。思えば久しぶり、ですね」

「ああ。楽しみだ。夏原に春野さんもどうかな」

二人だけを仲間はずれにするのもひどい話だ。ジュピトリスのお菓子は絶品なのでこの二人にも一度味わってもらいたい。

「悪い。甘いのはちょっと。それに、今日は時間がな」

「ごめん。この後生徒会絡みでまだ仕事があって。また今度ね」

「それは残念」

「では、また今度に」

「まぁ、いつかな。じゃあな、俺は帰る」

「なら私も生徒会に出るわね。さよなら」

春野さんと夏原はそう言って、さっさと出て行ってしまう。随分あっさりと振られてしまった。

春野さんが忙しいという理由は納得できるとして、夏原の甘いのが苦手という発言は頂けないな。

まぁ、僕が筋肉のよさを理解できないのと同じ事なのだろうけど。それに、そのことは前々から知っているからね。

仕方ない。それに、この一枚が描きあがるまで待つという余裕も二人にはなさそうだった。

逆に言えば冬森さんは待つつもりということになるのだが。そこは少し疑問だ。

69: >>1 2011/04/02(土) 21:20:29.56 ID:E8E9vU700
「時間、かかるよ?」

「いいですよ。後ろで見ていますから」

僕が一応確認しておいてみれば何の事も無し、といった風に彼女はそう言う。

待ってくれるということ自体はありがたいし、後ろで見られていることも別に悪くは思わない。

ただ、僕の描く風景なんかで退屈が紛れるだろうか。集中するとただでさえ少ない口数がさらに少なくなるのだが、なんかそれも悪い気がする。

何か話したほうがいいんだろうか?

「ねぇ、冬森さん」

「何でしょうか?」

焦ったあまり、話すネタもないのに発言してしまった。僅かな沈黙が二人の間を流れる。

やや気まずい間だっただけに、どうしたものかと考えを巡らせた挙句、今描いている絵について話すことにした。これならまだ自然だろう。

「このイラストなんだけど、女の子がウサギから最後にもらったこのクッキー。何クッキーかな?」

「それは考えていませんでした。結構、細かいですね?」

冬森さんが小さく笑うのが背中越しにわかった気がして、僕も笑う。

苦し紛れに出た言葉とはいえ、上手くいったようだ。何か言ってみるものだなぁ。

「指示にも入ってなかったからさ。少しだけ気になったんだよ。何色で塗ればいいかもわからないし、それにこのクッキーはお菓子の国があるという唯一な証拠なわけで、何か特別なクッキーというのがわかるように描いても面白いかもしれない」

「なるほど。それもそうですね、それにしても、特別な、ですか」

「まぁね。でもクッキーはクッキーだし、何の変哲もないほうがいいのかな」

「どうでしょう。私は、その特別なというのが気に入りましたけど」

割と受けたらしい。見た目でわかる特別なクッキーというのは確かにどこか心揺さぶれる何かがあるかもしれない。

どこか神秘的で楽しげな雰囲気が出るようにも思える。

「じゃあどうすれば特別だと見てわかるかな」

「ウサギの形……とかどうでしょう」

「ウサギの?」

何と無くわかるような、わからないような。傍目から見ればただのクッキーにしか見えず、お菓子の国の証拠というには弱すぎる気がする。

「他の人がお菓子の国の存在を信じる必要はないんだと思います」

「というと?」

「この女の子がそうだとわかっていれば、お菓子の国の存在を大きくなっても信じられる。

それなら、何でもないように見えるクッキーでもいいんだと思いますよ」

「なるほど。じゃあこれはカビたりもしないってことだよね」

「そうですね。青カビだらけになったら、かわいくないですから」

カビもしない、不思議なクッキーという文章を後で加えておきます、と冬森さんは言ってまた笑った。

確かに、カビたりなんかしたらかわいくない。とりあえずクッキーについてはそれでいいとして。

「実はね、この絵が終わったら後絵も描こうと思っているんだ」

「後絵ですか?」

「うん。今までは、どれも冬森さんの指示に従っていた――でも、僕もこのお話が気に入ってね。僕なりにこれを表現したい

――その上で、冬森さんには意見をもらいたくてね。一から十まで決めてくれ、というわけじゃない。デザインを、一緒に考えてほしいんだ」

「私でいいんですか?」

「代わりはいないよ」

「じゃあ、頑張りますね」

70: >>1 2011/04/02(土) 21:26:00.13 ID:E8E9vU700
そう、冬森さんはどこか嬉しそうな声で言った。

これで渋られたらどうしようかと思っていたが、思っていた以上に上手くいったのでよしとしよう。

そうと決まれば、この絵は早いところ仕上げたほうがいい。

時計を見ればすでに16時を過ぎ、あと少しすれば17時になろうかといった具合だった。

時間が経つのは随分と早いものだ。このままではジュピトリスに行くなんて場合じゃなくなる。

僕はペースを上げようとそれから口を開くことはなく、冬森さんも察したのか後ろで見ているだけだった。

18時を少し過ぎたところでどうにか描き終わり、予定通りジュピトリスへ僕らは向かった。

そこで新作のモンブランなんかを食べてみたりして(これがまた当たりだった)彼女を家まで送ってから僕も帰路についた。

文化祭での販売が、すぐそこまで迫ってきている。そしてそれは問題なく進むに違いない。

そしたら、それから絵本部はどうなるのだろうか。まさか自然消滅と言うわけにはいかないだろうが。さて。

78: >>1 2011/04/03(日) 23:04:28.89 ID:hebi0UqT0
翌日。

今日で製作自体は終わりそうだ、と夏原と春野さんに伝えると、そういうことなら帰ると夏原はわざわざ課題をもらって帰ると言い出した。

それに同調するように、春野さんもそれなら完成したら先生と一緒に印刷所にいくから、生徒会室に着て、と生徒会に向かっていった。

たぶんどちらかの働きかけで僕と冬森さんを二人きりにするよう図ったのかもしれない。本当に、面白がってるんだからなぁ。

まぁ、とりあえず描くことには変わり無い。気を取り直していこう。

そんなわけで、部室。

昨日約束した通り、まず後絵のデザインを二人で考える運びになった。

締めの絵であるわけだから、一枚で完結している絵にならなければならないということでは一致こそしたものの、肝心の何をどういう風に描くかという点においては有効な意見が出てこなかった。

どうもしっくりするものがない。

「女の子を正面にもってくるとしても、背景をどうするかな」

「背景……右と左に分けてしまうのはどうでしょう」

「分割して? どういう意味が?」

「左側にお菓子の世界、右側に現実を。どうでしょうか」

冬森さんの提案するその案を頭の中に思い浮かべる。

方やカラフルで温もりがあり、方やモノクロで冷たさがある。境目はハッキリと。なるほど、悪くない。

「じゃあ……それでいってみようかな」

「なら、見ていますね」

「結構細かくなりそうだから、一日仕事だね」

付きあわすのも気の毒な気がするのだが、本人が見ていたいというのだから仕方が無い。

実際問題、僕の頭の中に浮かんだ構図だと背景がとても細かいので、とりあえずは中央にくる女の子を大きく描いて、背景は描きながら考えることにした。

そうすれば、簡略化できるところとか、別に描かなくても大丈夫そうなところとかが見えてくると思うし。

しかし、どうも人を待たせるというのはどこか心苦しい。特に冬森さんがそれを苦だと感じていなくてもだ。

何故か仄かな罪悪感じみたものを感じずにはいられない。

「文化祭が終わったら、打ち上げがしたいね」

「打ち上げ。いいですね。四人で」

用紙を広げて、ペンを走らせる。それと同時に、とりとめもないことを話し始めた。

今から終わった後の話というのも気が早いと言う気もするし、そもそも祝う気分でいられるのかが問題だ。

作るのが最終目標に近かっただけに、印刷して売るとなるとどうなるものか。

春野さんのネムバリューで売り出すにしても限度ってものがある気がする。

元々、大した部数を刷るつもりはなく、半分売れればいいやぐらいの気でもいるのだが。

「流石に甘いものばかりというのも二人には酷だろうからさ、普通のお店でさ」

「そうなると、打ち上げの定番どころですよね。焼肉屋さんとか。苦手ですけど」

焼肉。どうも苦手な熟語だ。何も僕が菜食主義というわけではなく、焼肉のお店は焼肉とそれに関係するものしかないのでどうしても油っぽい食事にならざるを得ないわけで。

なんか色々胸焼けを起こしそうだ。小食なんだよ、僕。

「もうちょっとバリエーションがあったほうがいいね。食べ放題のお店?」

「でも、夏原君しかいっぱい食べられそうな人いませんよ?」

言われて見ればもっともである。女の子である冬森さんと春野さんは言わずもがな。僕は前述したように食は細い。

夏原はあの筋肉を維持するために大量に食らうだろうが、それでも僕らの分まで元が取れるとは考えずらい。

無理に元を取ろうとする必要は無いが、元を取りたくなるのがケチな小市民の性とでも言えよう。

「ファミレスかなんかで、小規模に騒ぐのが僕らには合っているのかな」

「学生なんですから、お祝いも弁えませんと」

そう言う冬森さんはどこか楽しげだった。まぁ、ファミレスのデザートも美味しいところが増えてきているらしいし、それに経済的にもファミレスのがお得だ。

夏原や春野さんがどう出てくるかはわからないが、特に何かあるわけでもないだろう。

79: >>1 2011/04/03(日) 23:07:01.86 ID:hebi0UqT0
「好評だったら次回作もできたらいいね。案外部員だって増えるかもしれない。そしたら出す絵本の種類も増えるかもしれない」

「うーん。そうだとしても、こんな風に少人数でやるのが気が楽でいいと思いますよ」

「まぁそれだけ人間関係での摩擦の機会が増えることだしね」

僕が女の子嫌いになったのも言わば小さな摩擦が原因だ。火は一度ついたら瞬く間に大火になる。

小火の時点で消せなかった僕はあの時はあまりにも幼すぎた。そういえば、僕らは異性が苦手な理由と言うのをまだ話していなかったような気がする。

無論、話していて楽しいもんでもないし、聞くにしても胸が痛むばかりでやめておいたほうがいい話題ではあるが。

とはいえ、今でなくてもいつか話せればいいような気もする。

「もっと言えば、四人のままでいたいです」

「来る者拒まず、ってスタンスには問題があるかな。まぁ、流石に新入部員のことまで考えるのは気が早すぎるね、とりあえず、これを終わらせればいよいよ印刷なわけだし。頑張ろう」

とはいえまだ線画すら書き終わっていない。背景もやっぱり細かくなってきているし。

少し急ぐべきかな。あと略せるところは略していこう。流石に無理がある。

「応援していますよ。お使いぐらいなら出来ますから」

「パシリを頼むような仕事は多分ないかな」

あったとしてもまさか頼むわけにもいかない。とりあえず、描き進めないと。

とりあえずは、お昼の休憩を迎える頃には半分終わらせていたい。僕が本腰をいれて描き始めると自然と会話は散発的なものになり、しばらくして静寂が僕らを包んだ。

お昼過ぎ。

とりあえず予定していたところまでは終わった。本当に夕方までに終わるのだろうかと言う気がしてきたが、もう少しやれば終わるのだと自分にいい聞かせる。

とりあえず、しばしの間休憩を挟むことにした。お昼にしよう。

「じゃあ、昼食を買ってくるよ」

「あ、それなら。私、お弁当をもってきたんです」

「え? 僕に?」

「はい」

これまた驚いた。まさかそういう展開が現実においてあるとは。

「いいの?」

思わずそんなことを聞いてしまう。冬森さんは嬉しそうに頷いて、鞄からお弁当箱を取り出した。彼女の分と僕の分で確かに二人前ある。

僕が昼食を用意していたらとか考えなかったのか。もしくは、用意していないことを知っていたのか。

とはいえ、本人にその辺りを聞くのもなんだか無粋だし、考えていてもわかる問題じゃないので気にしないことにする。人間、ある程度適当な方が生きやすい。

「こう見えて、料理は得意なんですよ」

「へぇ。じゃあ、お菓子なんかも自分で作れるんじゃない?」

冬森さんがお弁当箱を開く。中にあるのはブリの照り焼き、玉子焼き、ほうれん草のお浸しに里芋の煮物。

徹底された純和食で少々驚いた。冬森さんは料理スキルにポイントをかなり振っていると見えるね。

料理スキルはINTとDEXに大きく影響されるものであるから、なるほど冬森さんらしい。手先も器用ということか。

「……で、やっぱりお店の方が美味しくて」

しまった。話を聞いていなかった。目の前のお弁当に少々気を取られていたらしい。

僕のアホ。聞き返すのもなんだし、頑張ってアドリブで答えないと。

「いやでも、冬森さんの作ったやつにも興味あるな。甘いもの好きとしては、ね」

「……そ、そうですか? なら、今度作ってきますね」

80: >>1 2011/04/03(日) 23:09:05.99 ID:hebi0UqT0
正解だったらしい。案外アドリブでもなんとかなるものだ。

「このお弁当の見た目がいいしね。じゃ、いただこうかな」

用意された箸も何やらちゃんとした、というか立派なものだった。

ひょっとしたらお金持ちの家の人なのかもしれない。でもそれなら公立じゃなくて私立のいいところに行きそうな気がする。

それにお金持ちが使うような箸ともなると金ぴかじゃないと。

「……どうかしましたか?」

「ああいや、なんでもないよ。いただきます」

思考が余計なところに飛んでいってしまった。僕はそれを誤魔化すようにとりあえずお弁当に箸をつける。

とりあえずは照り焼きからいってみようかな。

いやはや。見せかけだけではなく、本当に彼女は料理スキルが高いようだった。DEXはかなりあると考えていいだろう。

どれもこれも美味しかった。気づけばお弁当箱が空になっていた勢いだ。いや素晴らしい。午後からの創作活動にも力が入ると言うものだ。

「それにしても、誰に料理を習ったのかな。凄い上手いよね」

「そうですか? 母に教わったんですけど……その、そんなに美味しかったですか?」

「そうだね。機会があればまたいただきたいぐらいだよ」

冬森さんは照れたように笑って、小さく頷いた。奥ゆかしいとでもいおうか。それにしても、冬森さんの母親か。

勝手な偏見だけど、私服が和服ぐらいの勢いな古風な人を想像してしまう。今時そんな人はなかなかいないだろうとは思うけど。

「それならまた今度、作ってきますね」

「迷惑じゃなければ、ありがたく」

「はい。任せてください……と。そろそろ、再開したほうがよくないですか?」

いわれて気がついた。これはいけない。僕は再び道具を広げて、ペンを取った。

ここが正念場なのだから、気合をいれて臨まなければならない。上手く進めばこれで終りだ。

春野さんの話では、この絵を受け取ったら顧問の先生の車で印刷所までいく運びになっているらしい。

よし、とりあえずは美味しいお昼分ぐらいの働きはしっかりしないとね。

81: >>1 2011/04/03(日) 23:15:10.39 ID:hebi0UqT0
気がつけば教室は琥珀色に仕上がっていた。色合いが変化したような気がしてあたりを見回せばこの様、ということである。

思えば随分と集中してできたものだ。お陰で絵は完成。我ながら良い出来だ。これなら冬森さんのお話に見劣りはしない。

時計は17時過ぎを示していた。後ろにいた冬森さんも流石に居眠りをしてしまっている。

春野さんが後で様子を見に来るといっていたから、もうそろそろ来るだろう。そうなるとこっちから出向いたのではすれ違うかもしれないから待つことにする。

どうにもヒマなのだが、冬森さんを今起こすのもどこか勿体無い気がする。

それというのも、この夕日に包まれたように眠っている彼女がどこか神秘的に見えていたからだった。

手が疲れているハズなのに、自然とペンを、紙を掴む。無性にデッサンをとりたくなったのだ。彼女の姿を。この教室を。

「絵描きの性とでも言おうかな」

そう独り言を呟いて、ペンを走らせる。日がこれ以上沈まないように。今この教室の、光量も、熱量も、空気も変化してはならない。

できれば時間が止まって欲しいところだ。でもそうもいかない。だからこそ描くのだろう。この瞬間を、できれば永遠に拡大したいから。

機械を使わずに、自分の手でそれを遂げたいから。

絵を描く人間なら、どうしようもなく描きたくなる瞬間というのが存在する。僕の場合、それが夕暮れで静かに眠る冬森さんだったのだ。

自分自身驚きだ。そんな感覚が、まさか女の子である冬森さんから得るとは思いもしなかった。本来ならば女の子は僕の敵だ。

恐怖し、惑い、逃避する存在だ。それだけど、冬森さんや、春野さんは違う。彼女等は僕を助けるだけでなく、ある部分で僕の支えにすらなっていた。

こうなってくると、認めざるを得ない。僕の過去はきっと、どうしようもないほどの運の悪さからきたのだ、と。そして彼女らは、素晴らしい人たちであることを。

気づけば描き終えていた。時間もそうかかっていない。興奮しながら描いたためにやや荒いところも目立つけど、これなら十分満足できるレベルだ。

流石に人に見られるのもアレだから鞄の深くにしまっておこう。

「上手いものねぇ」

僕の掌から冬森さんのデッサンが消えてなくなった。嫌な予感を感じながら振り向けばそこに春野さんがいた。

背後にエフェクトがかかっているような気がする。BGMは是非ラスボス系のでお願いしたい。

某宇宙戦争のラスボスのアレはしっくりくるし、巨大怪獣のあのテーマソングでもいい。

「い、いつからそこに」

「絵描きの性~らへんからかしら?」

「殆ど最初じゃないですか!」

「まぁまぁ。流石に本人がその気ならからかわないわよ。ほら、返すわ」

「そ、その気って?」

手元にデッサンが帰ってきた。からかわないと言ったくせに、春野さんはニヤついている。よりにもよってな人に目撃されたものだ。それも言い逃れできないほどの。

「さぁ? ふふ。面白いけど、ノータッチにしといてあげるわ」

「……複雑だなぁ」

「まぁいいわ。……それで、そろそろ印刷ってことにしたいんだけど?」

「それなんですが――」

完成してはいる。してはいるけど、やっぱり冬森さんに最初に見てもらいたい。

どう伝えるか言いあぐねていると、春野さんが意地の悪い笑みを浮かべて僕を見ていた。

「じゃ、ちょっと外で待っているから――手早く、ね?」

82: >>1 2011/04/03(日) 23:15:59.06 ID:hebi0UqT0
ううん。どうにも、この人には叶わない。僕はどこか愉快そうに出て行く春野さんを溜息をつきながら見送った。

とりあえず、待っているとは言われたけれどそう長く待たせる訳にもいかない。折角の好意なんだし、彼女に絵を見せることにした。

わざわざ起こすのには少しばかり気後れするが、どっちみち適当なところで起こすことになるだろうので、腹を決める。

まずは普通に話しかけてみたがどうにも起きない。そりゃこれぐらいで起きる人間もそうそういないけど。仕方ないので、僕は彼女の肩に手を置いて軽く揺すった。

「っ……あれ、寝ちゃっていましたか? すいません。……それで、絵は?」

「もう出来上がって、見せようと思ってね」

そう報告すると、冬森さんは飛び上がらんばかりに喜んだ。眠気も吹き飛んだらしい。

「出来たんですか?」

「うん……これだよ」

僕と彼女で作った、この絵本の一枚絵。傍から見ればただのオマケや演出にしか見えないかもしれない。

でも、僕らにとってはとても大きな意味をもつ絵だ。

「わぁ……。やっぱり、素敵です。秋川君の絵は」

冬森さんはどこか感嘆とした様子で呟いた。こう面と向かって言われるとなんとなく照れるもので、思わず視線を彼女から逸らしてしまう。

どうにもこうにも、他人に褒められるのは慣れていない。それも、意識し始めてしまった女の子ともなれば尚更だ。

「ありがとう……。とりあえずは、これで一つの区切りだよ。あとは印刷して、絵本になるのを待つばかりだ。春野さんが待っているから、早く渡さないと」

僕がそう言うと、冬森さんはそうですね、と少しばかり名残惜しそうに僕にその絵を返した。

そこまで気に入ってもらえるとは、絵描き冥利に尽きる。

「さて。早いところ渡しに行かないと」

「そうですね。あんまり待たせると、また何か言われてしまうかもしれません」

「それもそうだね。行こうか」

琥珀色の教室を後にして、廊下に出る。出るなり、春野さんがそこにいた。外って、教室の外って意味だったのか。

「へぇ……私に何を言われるのかしらね、雪花」

「は、は、春野さん?」

楽しげに、もしくは獲物を狩ろうとする肉食獣のように春野さんが冬森さんに接近、捕獲。

実に面白そうに彼女のその柔らかな頬を蹂躙したのだった。

「あ、次は秋川君の番ね?」

「え、順番ですか?」

他人事では、なかったらしい。

83: >>1 2011/04/03(日) 23:18:38.09 ID:hebi0UqT0
とうとう迎えた文化祭当日。

本来生徒内での活動になる六日を丸々準備に費やしたのは我等が絵本部ぐらいなもので、客入りが心配だったが、春野さんという巨大すぎる広告塔は人を呼び込むのに十分すぎるものだった。

忘れがちだが、彼女は女子人気が非常に高い。彼女が絵本部と書かれた看板を掲げて校内を練り歩くだけで人が殺到する程だったのだ。

実際、僕と冬森さんは忙殺される勢いだった。仕方ないので、本来なら宣伝担当の夏原にもこちらを手伝ってもらわざるを得なかった。

それに、夏原も夏原で人を集めてしまいそうな気がするし、宣伝させればもっと大変なことになる。

それにしてもまさか、春野さんがここまでのパワーをもっているとは思わなかった。彼女はINTとCHAにかなり振っていると見える。

そのおかげで、絵本はすぐに売切れてしまった。僕らの手元に残す四冊分ですら、売りに出すかどうか迷ったぐらいだ。

こんなに売れるのなら、もっと用意しておけばよかったかもしれない。そうすればかなりの黒字を期待できたのだが。

こうも人気の内に終り、無事に文化祭も終わったところで、打ち上げをやることが流れで確定した。

元々お祭り好きな夏原や春野さんが僕らより早く提案してきて、場所については想定通りに、近場のファミレスになった。

とはいえ、安場ではない。お値段の高額さに定評のあるチェーン店になっていたのだ。

売上金黒字分は没収される仕組みなので何の根拠に基づいているか不明だが記念なのでという理由でそこに行くことになった。

僕のお財布事情も察してほしいものだが、僕自身どこか高揚していたので水を差すこともなく、冬森さんもどこか不安げだったが吹っ切ったようだった。

僕らの作品があんなに売れたんだから、浮かれていてもバチは当たらないハズだろう。

「なんだこの料金設定」

「夏原、自分で選んだんじゃないか」

ささやかな宴会もそろそろ終わろうかというとき、夏原が伝票を見るなり驚いた様子で言う。

メニューに値段が書いてあったはずなんだけど、まさかロクに見ずに頼んだのか。

学生の手にはあまるような高給店にいるのだから、もう少し注意していてもよさそうなものだが。それに夏原はそもそも頼みすぎだろう。

「秋川君もなんだかんだでふらふらとデザートを頼んだわよね」

春野さんが呆れたようにそう言う。いやいや、僕が最後まで甘いものの誘惑に打ち勝てるとでも。たとえファミレスといえどここは高級店。

そこの店のデザートともなれば、美味しいのが相場なのである。頼まずにはいられない。

「白桃パフェなるものに僕は逆らえなかったんです。無罪です」

「私もクリームアンミツには逆らえませんでした」

同調したように冬森さんも、机に顔を突っ伏しながら手をひらひら振った。

「あんたらねぇ……」

白桃、美味しかったです。甘いものは正義なんです。仕方ないんです。

「はぁ……じゃあ、とりあえずはお開きにしましょうか。私、ちょっと用事があるしね。そういうわけで、お願いね。夏原君?」

「え? 俺か? 何だ?」

「ついてきてよ」

夏原が珍しく面食らった表情をしている。それにしても夏原を伴う用事ともなると殴りこみかなんかだろうか。仁義無き闘いなのか。そうなのか。

「よくわからんな。まぁいいが」

「じゃあ秋川君、雪花をお願いね」

「任されました」

「その、用事ってなんですか?」

「ふふ。秘密」

84: >>1 2011/04/03(日) 23:21:47.59 ID:hebi0UqT0
どこか楽しげに言う春野さん。

僕に向かってニヤついた笑みを飛ばすところから、多分僕と冬森さんを二人にするための口実だろう。

夏原が僕と一緒に来てもアレだからといったところか。お節介といえばいいのかしつこいといえばいいのか。

「なんでもいいがな、お前等とりあえず自分の食った分ぐらいの金は出せ」

「夏原のおごりということにはならないかな」

「ならん」

武士みたいな人だね。

会計を済ませ、店の前で僕らは別れた。春野さんが夏原を楽しげに引きずっていったのはなかなかに見ものであった。夏原の無事を祈るばかりだ。

「夏休み明けから仲がいいですよね、あの二人」

「海で何かあったみたいだね」

やろうと思えばいくらでもリア充な生活送れる二人だからなぁ。

わざわざ僕らに付き合ってくれているのだからありがたいといえばありがたいが。

「その……今日は楽しかったですね」

「そうだね。文化祭で絵本が全部売れて、そのまま打ち上げ、だもんね。少し前の僕には考えられなかったような状況だよ。

自分がはしゃぎながら食べて騒ぐわけだ。想像もできない。それも面子に二人も女の子がいるんだから。驚天動地の事態だよね」

「はい。私も、少し前までは考えもしませんでした」

人は変化していく生物だ。それを自覚できるかできないかは兎も角として、状況や環境が変わってくれば自然と人は変わっていく。

僕らの場合は顕著な例として現われたのだろう。苦手な物を克服していくのはもっと遅々としたスピードなのが普通なのかもしれない。

ただ、僕らは一つの目標を糧に早いペースで異性というものを克服していった。

僕はもう、女の子が怖くない。苦手意識は多少引きずるかもしれないが、前のようではない。僕は変わったのだろう。恐らくは、良い方に。

少しの間の無言が続く中、気づけば辺りから人の気は失せて、大分前に立ち寄った公園に差し掛かっていた。

等間隔に設置された街灯が僕らを照らしていた。その光の下、急に冬森さんが思い切ったような声色で口を開く。

「その、前から話そうと思ってたんですけど」

「うん?」

「秋川君、前に私に言ってくれましたよね。私が必要だって」

「そういえば、そんなことも言ったね」

少し恥ずかしい思いをしたのを覚えている。ひょっとしたら、言った本人だけでなく、言われたほうも少し恥ずかしかったのかもしれない。

それにしても、何で今更。

「私も、秋川君が必要ですよ。言おうと思ってて、今まで言いそびれちゃいましたけど」

「そっか。ありがとう。でも、今日で文化祭も終わったし、しばらくは」

どこかズレた返答をしたのは自覚していた。多分、冬森さんが言いたいのはそんなことじゃない。

――もっと何か、重要な。

「なら、秋川君は今でも私が必要だと思いますか?」

冬森さんはやや俯いて、僕にそう聞いてきた。肩が震えているようにも見える。多分、これは言葉どおりの意味じゃない。

確かに、絵本部としての活動はひと段落を迎え、しばらくは休みになるか、活動らしい活動は行なわれないだろう。

そうなれば、絵とお話を担当する僕らの間柄というのは、少しの間は平行線を辿ることになる。

でも、今冬森さんが言っているのはそういうことじゃない。

85: >>1 2011/04/03(日) 23:24:27.11 ID:hebi0UqT0
「勿論――僕には、君が必要だ」

できるだけ慎重に、強くそう言った。僕が今でも彼女を必要としているのは間違いようの無い事実。では何故必要としているのか。

前述したとおり、僕らの間柄は、平行線を辿っていても何ら不自然ではない。それでも僕は彼女と交わっていたいと考えている。

冬森さんと話し、接していたい――人として、或いは友人として。彼女に、僕の意図がどれだけ伝わっただろうか。

冬森さんはどこか思案げな顔を浮かべ、しばらくしてまた口を開いた。どこか遠回りな、このやり取り。背筋が冷えるような感覚がする。

「どうして、ですか」

彼女のその、震えた声。消え入りそうな小さい、微かな声だ。ともすれば聞き逃しそうなそれを、僕は逃さない。

お互いに、なんとなくお互いが言わんとしていることはわかっている。それでも、こんな言葉遊びをするのは、お互いに自信がなくて、お互いに傷つくのを恐れている証拠だ。

この平和な関係が崩れるのを心のどこかで躊躇している。それでも、踏み出さなければ事は始まらない。

そして、踏み出すとすればそれは僕からだ。恐らくは、それが昔から言われる「男なら」なのだろうから。

「そうだね。なんだろう――多分僕は、冬森さんと一緒にいたいんだと思う」

彼女の問いに、そう曖昧に答えた。冬森さんは、それに対して少しばかり言葉が詰まった様子で、なおのこと表情を硬くさせていた。なので、僕は言葉を続ける。

「逆に、どうして冬森さんは僕が必要なのかな」

「おんなじ、ですよ」

やや語調を強めながらも、それでもまだどこかたどたどしく言う。おんなじということは、彼女もまた僕と一緒にいるということを望んでいるということだ。

これだと、殆どお互いに告白したに等しいが、まだ「友人として」という逃げ道が残っている。

臆病な僕らでは、そこに逃げてしまうのは想像に難くない。自ら退路を潰すのは趣味でない。

でも、最初にこの言葉遊びを始めた冬森さんの事を考えるなら、そうしたほうがいい。

ここは一つ。思い切って、オーソドックスに足を踏み入れよう。

「僕は、冬森さんのことが好きだよ」

少し勇み足だったかもしれないが、ここまできては後に引けない。今まで微かに感じてきて、夕暮れの日にはっきりと自覚した感情を、彼女にぶつける。

「はい、私も。秋川君が、好きです」

冬森さんは顔を赤くしきって、声を震わせながら返事を返してきた。この、短い言葉をお互いに伝えるだけで、どれだけの回り道をしたのか。

僕ららしいとも言えるが、あまりにも臆病すぎると誰かに言われるかもしれない。でも、これでも僕らなりの努力の賜物なのだ。文句を言われる筋合いは無い。

86: >>1 2011/04/03(日) 23:27:02.71 ID:hebi0UqT0
なんだかんだで、僕らは春野さんや夏原が狙っていた結果と同じことになってしまった。

やや気に食わないが、こうなってしまったのだから仕方が無い。惚れた方の負けだ。

「これで恋人同士、ですよね」

冬森さんが嬉しげに言う。僕自身の感情はなんとなく自覚していたところも多少あったが、彼女が僕に向けてそういう気持ちを抱いていたのは、さっきまでわからなかった。

そりゃ、嬉しくないといえば嘘になる。

「思えば初恋なんですよ、私」

照れたように冬森さんはそう続けた。思えば僕もこれが初恋だ。こんな妙なところまで似通るのだから、春野や夏原が茶化さなくてもこういう関係にはいつかなっていたかもしれない。

あの二人が僕らの背中を押す形になっていたことは否定しないけどさ。

「普通なら実らないものらしいんだけどね。白状するなら、僕もだよ」

「本当に、似たもの同士ですね、私達」

楽しそうに、花が咲いたような笑みを冬森さんは浮かべた。一度自覚してみれば、彼女の笑みのなんと可憐なことか。思わず見とれそうになる。

人の顔をじろじろ見ながらぼーっとしているのはよくないだろうから、僕はそっと眼を逸らした。

彼女はそれに感づいたのか、不思議そうに首を少し傾げた。僕は誤魔化すように口を開く。

「そうだ。明日の代休には、デートに行こうか」

「いいですね、どこに行きましょうか」

「思い切って、シュラインにでも行こう。奢るよ」

シュライン。高級洋菓子店だ。ケーキバイキングなんかが行なわれており、一人二千円近くとられる。

この八木市から二駅ほど離れたところにあり、今まではあまり行ったことはなかったが、明日ぐらいは特別だ。

「いいんですか? その、自分の分ぐらいなら出しますよ」

「いやいや。初デートぐらい僕に見栄を張らせてよ」

「じゃあ、お願いしますね」

冬森さんは嬉しそうに、もしくは幸せそうに言う。僕はなんとなく彼女のその小さな手を握って、当然のようにそのまま歩き続ける。

少し驚いた様子の彼女だったが、すぐに手を握り返してきた。僕らは今時珍しいぐらいの、たどたどしい関係だろう。

でも、こういうのは嫌いじゃない。どこか舞い上がってしまう。

しばらく彼女と手を繋いで歩いて、掌に伝わる体温を感じながら歩いた。会話は散発的だったけど、不思議と気まずさを伴うことはなかった。

僕のすぐ隣に、冬森さんがいる。それだけで、僕はある種の充足感を得ていたのだ。極端から極端に転ぶようだけれども、僕は冬森さんが好きでたまらない。

先ほどの言葉遊びも、この気持ちを自覚するための回り道だったのだ。一度自覚してしまえば、彼女が隣にいるだけで嬉しくなってしまうのも、無理はない。

それだから、彼女が隣にいて、たまに話して。それ以上のことをさらに望むほど僕は贅沢になれない。

まだまだ、お互いの気持ちに気がついたばかりなんだ。

気がつけばもう彼女の家の近くにまでたどり着いていた。

今日のところはこれで別れることになる。僕が少しの寂しさを覚えているところに、彼女も同じ気持ちなのか、手を握る強さがにわかに増した。

僕も強く握り返そうかと思ったところで、手が解かれた。冬森さんは少しばかり言いづらそうにその口を開く。今日のところの、別れの言葉だ。

「えっと。じゃあ私はここで」

「うん、わかった。それじゃあね、冬森さん」

「はい。秋川君。それじゃあ」

僕らが言うべき、言葉の続き。それは――。

『また、あした』

87: >>1 2011/04/03(日) 23:29:32.87 ID:hebi0UqT0
……というわけでこれで完結です。いかがでしたでしょうか。

読んでくれた皆様に深い感謝を。

コンセプトは微糖でした。でも友人にはマックスコーヒーといわれました。

できるだけ、お砂糖は控えたつもりでしたが。

さて。本当に100もいってないので、後日談を書こうと思ってます。

一応は希望を取りたいと思うので、自由にかいてください。

その中から選ぼうと思います。場合によっては複合させたり分離させたり。

クオリティとスピードは求めないほうが、無難です。

99: >>1 2011/04/17(日) 22:58:28.67 ID:Bd6jhPdD0
ではそろそろ投下しようかと。

後日談っていうよりは視点変更です。

後日談は秋冬のイチャイチャがやりたい気もする。やろうとして猥文になったので消しましたが。

もしくはチョイ役で出した茶子先輩のお話とか。元々は茶子先輩がヒロインのお話を考えてたんですがね。

まるっきり変えたので存在だけ明記することに。

100: >>1 2011/04/17(日) 23:01:32.02 ID:Bd6jhPdD0
また、あした。――彼らの場合――

「これからどうなるのかしらね」

何のことだ。と言ったら怒られそうな気がするので黙っておく。俺が鈍いのか彼女が短気なのかは知らないが、恐らく両方だと思う。

絵本部の打ち上げも終り、俺と春野、秋川と冬森はそれぞれ分かれて反対方向に進みだした。これは何も俺の考えではない。

春野が言い出したことなのだ。いらんお節介じゃあないかと言っても意味が無いので黙っておいたが。

それにしても何でそこまで他人の恋路に口を出すのが好きなのかね。最も、最初は俺も面白がっていたのは否定できない。

「なるようになる。それで、俺を巻き込んでまでの用事って何なんだ」

そう、春野は秋川らと別れる口実に俺が必要な用事とやらを作って別れたのだ。

単にあいつらを二人きりにさせたかったから、とは知っているが。何と無くそう言ってみた。

「別に私が仕向けたわけじゃないわ」

嘆息しながら春野が飄々と返してきた。

「じゃあ本当に用事があるのか?」

少し意外だった。そういうことなら、少し誤解していたかもしれない。

狼少年ではないが、すっかり春野のお節介だとばかり思っていた。

「あの子に頼まれたのよ。今回はね」

「冬森に?」

とんでもなく驚いた。わざわざ当事者がそういう、ってことは。

「……まぁ、告白だと思うわ」

「なるほど、な」

青臭い青春ドラマじゃあるまいし、とは言うまい。秋川と冬森は傍目から見てもお似合いだし、当然の帰結と言えるほどだ。

ショック療法というわけでもないが、互いに互いを許せれば自然と男女観も変わるというもの。

あの二人がくっつくのにはメリットさえあれ、デメリットなどないように見える。無論、本人らが望めばの話ではあるが。

「そうなると秋川が煮えきるかどうかだな」

「あら、その心配はないわよ」

まるで未来を見通すかのように言う。どうやらそう確信できるだけの自信があるらしい。俺の方が秋川との付き合いは長いはずなのだが。

どうしてまたそこまで断定できるのやら。長い付き合いからくる直感~というのは使えまい。

「だって、ね」

「言いづらいことか?」

101: >>1 2011/04/17(日) 23:03:23.76 ID:Bd6jhPdD0
少し春野は躊躇していたようだが、別に話しちゃいけないという事でもないと思ったのか俺に向き直り、俺を指差しながら言った。

「初めに言っておくけど、これで秋川君をからかったりしちゃダメだよ」

「俺はそんなことする風に見られていたのか? 春野」

割と傷ついた。そんなまるで俺を紛糾するように言わなくてもいいと思うが。

「……あ、と。ごめん」

我に帰ったのか春野は指を引っ込めて、コホンと咳払いをする。

「そうね。秋川君は……雪花をスケッチしていたのよ」

「スケッチ?」

それぐらいならしてもおかしくはないと思ったが、すぐに考えを改める。

何か深い意味がありそうだ。恐らくは、純粋に描きたくなったんじゃないだろうか。そのシーンを、とどめておくために。

「彼女の寝姿をね。夕暮れ時で、教室がハチミツ色になっていたから絵になる光景ではあったけど。すごいのよ、彼。一心不乱に描いていたもの」

「……どう考えても、か」

決定的といえよう。ひどい出来レースだ。リスク無しの告白なんて、漫画の世界だと思っていた。

最も、それは第三者だから言える意見だ。当人達はそんなことを知らないだろう。

いや全く。先におめでとうと言いたいぐらいだ。

「で、それで良かったのか?」

元々用事なんてない。どこまで歩いてもネオンは途切れず、人も忙しそうに歩いているし、車道じゃ車がひっきりなしに走っている。

「良いんじゃない? あの子が望んでいることなら、それで」

「まぁ、いなくなってしまうわけでもないしな」

でもどうせ春野のことだ。雪花が秋川君に取られた~などと口走るに決まっている。一週間以内に言う方に賭けてもいい。

「……それに、私もやりたいことができたから」

それは感心だ。合気道辺りをやれば、いい線いきそうな気もするが。でもどうせ武術ではあるまい。つまらんことだ。

「ねぇ」

春野はこちらに向き直り、改めて口を開いた。

102: >>1 2011/04/17(日) 23:06:08.81 ID:Bd6jhPdD0

「明日、映画を見ない?」

「唐突だな……またホラーか?」

春野は映画好きだ。それは結構だが、毎回毎回ホラーを選んでは怖いからと俺と一緒に行きたがる。

他の女を誘えと言ってみたこともあるが、ホラー好きなのは秘密の趣味なのらしい。

まぁ、超常現象や幽霊を怖がる春野なんぞ、学校の誰もが想像しないだろう。

「今度のは、すごいのよ」

「この前のはホラー物じゃなくてゾンビを撃つ映画だったろ。今度こそまともなホラーなんだろうな」

そう少しすごんで言うと、春野は途端にバツが悪そうな表情を浮かべた。

「……」

そして黙ってそっぽを向かれてしまった。俺はホラーといえば和風ホラー。要するに相手は超常現象。太刀打ちできる相手ではない。

しかし春野の好みは洋風ホラー。基本的に銃が有効。そうでなければ何か特別な倒す手段が必ずある。

「またゾンビか。好きだな」

「……悪かったわね。私はゾンビで限界なのよ」

倒せないような存在は‘怖すぎる’とでもいったところか。怖くなくちゃホラーじゃないと思うのだが。

それはもう景気良く眠れなくなるような奴……は俺もいやだが。でもそれぐらいが一般に言えるホラー映画ではないだろうか。

「まぁいい。考えてみれば、学校でも1、2位を争う美女とデートできるわけだ」

冗談半分でそう言う。考えようによっては思わぬ役得なのだが、これぐらいで喜べるほど俺は純粋でも軟派でもない。

それに、春野は少しドライで現実的な節があるのだ。

今回の件の場合は、好きな映画を見たいが一人では見れず、かといって弱味を見せたくはない。

見せても大丈夫か、すでに割れている人間に頼むしかないといった条件に見合うのが絵本部となる。

春野自身の計らいによって秋川と冬森の線は消えて、俺が残った。ただそれだけのことなのだ。

「……でしょう? だから、文句言わないで付き合ってよね」

103: >>1 2011/04/17(日) 23:07:35.74 ID:Bd6jhPdD0
挑戦的に笑いながら、というよりは眼を細め、語尾を強めて言う。売られた喧嘩は買う、といったところか。

「で、どこまで歩くんだ」

思えばこの道、家に近づいているわけでもない。適当なところで別れればよかったのだが、ずるずると町中を練り歩いてしまったわけだ。

春野の家は門限に厳しいということだが、打ち上げということで特例で夜中で歩くのを許してもらっていたらしい。

とはいえ、あまりに遅くなると怒られるだろう。

「……それもそうね。映画の日時はメールで伝えるわ。また、明日ね」

「ああ。遅くなるなよ。気をつけて帰るんだぞ。俺がついていったほうがいいか」

女性の一人歩きというのも褒められたものではない。

本来ならば俺が送っていってやるところだが、両親にあらぬ誤解をかけたくはないとのことだ。

当然といえば当然か。俺のような男と自分の大事な愛娘が一緒に帰っていたら卒倒ものだろう。

「見かけによらず心配性ね。平気よ、じゃあね」

そう言って、春野は角を曲がった。帰り道に繋がる道なのだろう。

対する俺は反対方向――要するに秋川と冬森が歩き出した方向に家がある。

「……まぁ、ジョグには足らん距離か」

遠い、と不平を言う前に足を動かすのが一番建設的だ。

「二人が羨ましいわ」

誰にも聞えないように、金の髪の少女はそう呟くのだった。

104: >>1 2011/04/17(日) 23:08:48.63 ID:Bd6jhPdD0
とりあえずコレで終りです。少し急ぎ足だったかもしれません。ご容赦ください。

何か希望があればそれで書こうと思うので自由に書いていってください。

ところでメガネってなんであんなに素敵なんですかね。

メガネを外すと美しいってのは邪道ですよね。メガネだから美しいんですよね。

114: >>1 2011/05/17(火) 21:01:24.46 ID:eMv9cKCj0
「悪いことをしよう」

冬森さんと電話中、僕は唐突にそう提案した。この場合の悪いことというのは、何も武装して商店を襲うという意味ではない。

ましてや、個人経営のコンビニの在庫を段ボールごと万引きするという意味でもない。

もっと小市民的で、もっとしみったれた‘悪いこと’なのだ。

「わたし、梅酒がいいです」

「じゃ、僕はチューハイでも」

要するに、未成年の飲酒である。

なんだかんだで、僕と冬森さんの関係も長く続いている。

三年生になった今でも絵本部は四人のままで細々とやっているし、去年の文化祭でも絵本は多く売れた。

一年のときの反省を活かして、大幅に増刷したのだがそれでも追いつかないほどだった。

僕と冬森さんの間柄というのは、どういうわけだか今ではクラスに知れ渡っている。

特に公衆面前の前でイチャつきもしなかったが、人の口に戸は立てられぬ、というのと、お互いの態度で察することができたのだろう。

そもそも、嘘をついても仕方が無いので、質問には素直に答えたのが大きいとは思うけれども。

まぁでも、バカップル認定までしなくてもいいとは思うんだよね。僕達はあくまでも、常識的なカップルな訳だから。

デートなんかも定期的に行なうし、部屋に遊びに行ったり、招いたりもした。どこまでも普通じゃないか。

ただ、一線は未だ越えていないといったことを夏原に話したら、ひどく驚かれてしまった。

別に◯◯が無いわけでもないし、互いに清い身体でいることを誓った覚えもない。でも、特にソレを目標にしなくてもいいのだと思う。

今時、◯◯◯◯だけが愛を確かめ合う行動なわけでもないだろうし。未来に生きる若者なら、そういう前時代的な概念から脱却しないとね。

最も、男女である以上は長く続くとそういう機会もあるかもしれない。なので、別段強く否定するつもりもないが――別に、急ぐ必要性は無い。

115: >>1 2011/05/17(火) 21:03:10.04 ID:eMv9cKCj0
――とまぁ、そんな感じのことを夏原に言ったら、驚きを通り越して呆れられた。近くにいた春野さんにまで呆れられた。

あのね、そんなに僕達をただれた若者にしたいのかな。

「いやなに。全国の学生の模範みたいでなによりだ」

「そうね。火遊びは若いうちからする必要はないものね」

でも、結局はなんとなく納得してしまうこの二人も、なんだかんだ根は真面目なのだと思う。

この二人も何と無く怪しい間なのだが、かつての彼や彼女とは違って僕らは沈黙を保っている。

助けられておいてなんだが、ゆっくりと縮まる距離というのもいいだろう。僕らの関係はある意味電撃的だった。

出会ってから一年もかからずに恋人になるといった、それなりに急なものだったのだ。それなら、時間をかければどうなるのか気になるのが人情というもの。

求められれば協力するかもしれないが、特にない以上、干渉するつもりはない。それが僕と冬森さんの共通認識だ。

「……火遊び、ね」

春野さんの発した言葉を何と無く繰り返す。なんだか、そのフレーズが気に入った。

火遊び、悪いこと。不良。うん。未知の領域だ。これは何か悪いことをしなければなるまい。

「別に盗んだバイクで走り出さなくていいのよ?」

「15は生憎過ぎ去ってしまいました」

それに、触るものみな傷つけるような育ちはしていないし。

116: >>1 2011/05/17(火) 21:05:01.42 ID:eMv9cKCj0
とまぁ、そんなやりとりがあって冒頭に戻る。

僕は全くの唐突にああ言ったのだが、即座に冬森さんは察したらしい。お酒を呑もう、という考えに到ったことを。

「よし。流石に若い身空で酒盛りはまずいから、一本だけ買おう。350mlのを一本ずつ。ツマミというのも買ったほうがいいね。何がいいんだろう」

「……お菓子、は合いませんよね」

「多分、生クリームとチョコレートに梅酒は合わないと思う」

僕と冬森さんは全くのお酒初心者。わかるわけがない。でもとりあえずこれは解かる。お菓子はやめておいた方が無難だと。

「よくおつまみのコーナーにチーズが入ったちくわが置いてあるね」

「あ、チーカマとか。ありますよね……練り物系がベターなんでしょうか」

「少し年寄り臭いような気もするけど、イカ辺りは好みじゃないしね。その辺りでいってみよう」

かまぼことか、ちくわとか。特に嫌いじゃない。おつまみの筆頭としてよく見かけるが、本当に美味しいかどうかは未知数だけど。

「じゃあ、今日は秋川君の部屋で火遊びですね」

「よしきた。買いに行こう。冬森さんはー……拙いだろうから、部屋で待っていて」

「わかりました。じゃあ、待っていますね」

冬森さんは、中学生に間違われてしまうほど小さいからね。

ちなみに、僕達はお互いの家の鍵を持っている。互いの家族にはナイショで、だ。

都合のいいことに僕の家族は明日まで帰ってこないから(そうでなければ飲酒の提案などしない)思う存分火遊びができるというものだ。

僕は流行る気持ちを抑えて、近くのコンビニに走る。初めてのこととなると、どうにもワクワクしてしまうね。

117: >>1 2011/05/17(火) 21:07:05.91 ID:eMv9cKCj0
「ははぁ。なるほど。訳がわからない」

――で、店内。とりあえず、おつまみのコーナーからはチーズ入りチクワ、カニカマ、チータラなんかをチョイス。

冬森さんが所望した梅酒も確保した。問題は僕の分だ。レモンやグレープフルーツ、巨峰にイチゴやらなんやら。一番飲みやすいのはなんだろう。

悩んでいると、大学生ぐらいの人物が口笛なんかを吹きながらレモンのソレを何本かもっていった。飲み会でもやるつもりなのだろうか。

「じゃ、僕はこっちで……」

対抗心というわけでもないが、何と無くその隣のグレープフルーツを選んでみた。

特に美味しそうな見た目でもなかったけど、こういうのは勢いだ。

会計を済ませて、家に戻る。思っていたより、あっさりとレジは通過できた。まぁ、高校生の私服姿と大学生の区別なんてつかないからね。

僕は髪色が茶色いことだし、調子に乗っている大学生ぐらいには見えたのかもしれない。

部屋に入ると、すでに冬森さんが到着していたらしく、僕のスケブを眺めていたみたいだった。

あまり面白いのは描いてないが、冬森さんが見たいというのだから止める理由はない。むしろ、ニコニコと見てくれる人がいて嬉しいぐらいだ。

「買ってきたよ」

「わぁ。不良ですね、私達」

「随分としみったれた不良だけどね」

テーブルにお酒とおつまみを置いて、お互いに向き合って座る。

「それじゃ、火遊びに乾杯」

「乾杯です」

未開封のまま缶を持ち上げて、軽くぶつける。直後にプルタブを押し込んだ。

炭酸飲料らしいしゅしゅわとした景気の良い音と、独特なお酒の匂いがする。

118: >>1 2011/05/17(火) 21:09:30.27 ID:eMv9cKCj0
「お酒臭いです」

「お酒、だからね」

冬森さんのあまりに余りな当たり前なことを言われて、思わず苦笑しながらチューハイを口にした。なるほど、お酒臭い。

すぐにグレープフルーツの味がやってくるが、お酒って苦いものらしい。オマケにグレープフルーツなものだから後味が当然苦い。

これは少しばかりハズレを引いてしまったようだ。思わず顔を顰めるが、買ってしまったのだから諦めて飲むしかない。

「んー……合う、のかな」

チータラをつまんでみる。別に何か特別美味しく感じるわけでもないような。チョイスが間違ったのか、こういうものなのか。

いまいち区別がつかないけれど、でも所謂おつまみを僕は選んだんだけどなぁ。

「わかりませんねぇ……」

冬森さんも楊枝にささったチクワを口に運んで、梅酒を一口飲んで、僅かに首を傾げた。

僕ももう一度挑戦してみるが、なんというか、この手の果実系のフレーバーとこのオツマミ達があんまり合わないような気がする。

でも、なんとなく手が伸びていく。正直、あんまり美味しくないような気もするんだけど。妙に後を引く。

グレープフルーツとアルコールの苦味にも慣れてきたらジュースのような感覚だ。元々炭酸はあまり強くないので、飲むのに時間はかかるが。

それでも、気付けば割と飲んでいる。見れば冬森さんもそんな感じで、何故だか二人して口数は減っていった。

やられた、と思ったのはお酒の残りが少なくなってきたころ。三分の二程飲んだところで、ついに酔いが回ってきた。

なんというか、ひどくボーッとする。熱に浮かされているような感覚だ。実際、体温はいつもより高いと思う。

「……飲みきっちゃいました」

冬森さんは僕の目の前で梅酒を飲みきった。高潮した顔で虚ろに僕を見つめている。目が潤んでいて、唇は濡れて艶っぽい光沢を放っている。

ひどく蟲惑的だ。どきり、とはした。酒で酔った勢い、というのもよく聞く話である。聞く話ではあるが――。

119: >>1 2011/05/17(火) 21:10:58.35 ID:eMv9cKCj0
「……いや、無理」

そういうわけにもいかない、と残った理性を総動員して自分のその愚かな考えを却下する。アルコールなんかで進むような関係は嘘だ。

僕はこの関係を決して嘘なんかにはしたくない。いくらなんでもこういうのは勢いで通すわけにはいかないだろう。

「頭、ぐるぐるします……」

力なく、というよりかは焦点の定まらぬ眼でヘラヘラと冬森さんが笑っている。うーん。冬森さんは酔うとワケがわからなくなるタイプらしい。

そう冷静に分析している僕だが――どこまで正常な思考をしているのかわかったものではない。自分の判断力に自信がもてるわけはない。

何しろ、傍から見れば僕も充分酔っ払っているハズなのだ。

「きす、しませんか。あきかわくん」

冬森さんが身を乗り出して、僕の首に腕を回してくる。ああ、うん。悪いことって、大概いい結果はうまないよね。

大して美味しくもないお酒を飲んで、ワケのわからぬことに。僕らにはあまりにも不良は早すぎた――!

「いや、あの。ふゆもり、さん……?」

「したく、ありませんか。わたしのこと、きらいですか?」

なんでカタコトなの、という突っ込みができる空気ではない。しかもとても悲しそうな、うるうるとした瞳でこちらを見ないでほしい。

ああ、こうなってしまったら多分もう何しても無駄なんだろうなぁ。酔っていた、ということを免罪符にはしたくないけど。

ああ、でも、うん。

上手く考えられないなら、考えなければいいんだと思う。

その夜、酔いが醒めた頃合で僕と冬森さんは大人しく、お酒は20歳を越えてからと決意するのだった。

具体的に何が起きたのか、とか、そういうのはそれこそ、ご想像にお任せしたい。

ただ、思考放棄はやってはいけないことなんだと、僕は学んだ。

130: ◆hwowIh89qo 2011/07/08(金) 23:25:00.58 ID:ll8QhN4I0
秋雨の終りと霜降の始まり

随分と、長い雨が降っていた。僕の季節たる秋には雨が多くなる。秋の長雨というやつだ。

この雨もいつかは降り止み、気付けば木枯らしの吹く季節になる。彼女の季節たる、冬にへと世間はその時を進めようとしていた――。

あの文化祭の終りから、僕と冬森さんの関係は回りから呆れられるものとなっていた。

僅かな期間で僕らはバカップルとまで呼称されるにまで相成ったのである。

まぁ、いつでもどこでも大体一緒、ということになってしまったのだから致し方ない気もするけれど。

でもどういうわけなのか、クラスの一角で裏切り者だ、などとよくわからないことを言われてしまった。

後に藤井君に聞いてみると、僕は非リア連合から追放処分を受けていたらしかった。そもそも入った覚えがないのだけれど。

「今日の帰りはジュピトリスに行こうか」

学校の休み時間、僕はそう冬森さんに提案してみた。

基本的に僕達は毎週水曜日の帰りに一緒になってお菓子屋さんないし喫茶店の類に入ることが慣例となっているのだ。

今日は丁度水曜日、ローテーション的にはジュピトリスの日となる。

冬森さんは僕の提案を待ってました、と言わんばかりにころころと笑いながら賛同してきた。

僕も傍から見ればそう見えるのだろうが、甘い物の話をしているときの冬森さんは、とても輝いているように見える。

「いいですね。あそこの新作のミルフィーユはまだ食べたことがなかったんです」

「僕はジュピトリス・トーストを試してみるよ。店長の悪ふざけ、って話だけど」

「デカ盛りの親戚ですよね、あれ。食べ切れるんですか?」

「ううん。やってみないとどうにも」

木星帰りの疑惑がある店長が酸素欠乏症寸前になるまで考え抜いてできたのがジュピトリス・トースト。

その量と甘さは、全身を突き抜ける稲妻と化す。らしい。

閑話休題。大体が冬森さんと交わす会話はお菓子のことになるので、文字通り僕らはスイーツというわけになるのである。

最も、冬森さんの場合は定期的に甘味断ちが行なわれる。かと思えば、一緒にジョギングしましょう、といったことになる。

ちなみに、休日のジョギングは恒例行事と化している。終わったらどちらかの家に行くのがおきまりのメニューだ。

すでに冬森さんのご家族とは仲良くなってしまっている勢い。

「今日の帰りも、楽しみですね」

「うん、全くだ」

僕らの関係も、それこそお菓子のように甘い。

「お菓子というよりは砂糖だがな」

――どこかでそんな悪態が聞えた気がした。

131: ◆hwowIh89qo 2011/07/08(金) 23:28:45.43 ID:ll8QhN4I0
散々降っていた雨も、帰りまでにはどうにか止んでいてくれた。

僕は冬森さんと手を繋ぎながら、道路のそこかしこにある水溜りを避けながら歩く。

目指すのは当然、ジュピトリスだ。もうこのぐらいの季節になってくると、いい加減肌寒い。

晴れている日は、トチ狂ったセミが鳴き始めるような具合でもあるのだが。まぁ、そんな曖昧さが秋というものだろう。

絵に描いたような秋なんて、ほんの一寸だ。

「秋川君」

「何かな」

「今日は、時間大丈夫ですか?」

「うん? まぁ、特には」

「じゃあ、ゆっくりできますよね。話したいことと、聞きたいことがあって」

「ふぅん。じゃあ、そうだね。お代わり自由のコーヒーで何時間も居座ってやろう」

常連なのだから、それぐらいは許されるだろう。店長の苦笑が目に浮かぶようだけれども、そこは僕らのために犠牲になってもらう。

かくして、僕達はジュピトリスにたどり着いた。僕らの指定席と化している、できるだけ窓から遠い、奥まったテーブルに座る。

「それで、話っていうのは?」

まさか別れ話でもないだろう、と思えるのは僕の自惚れだろうか。仮にそうだったらなんというか、すごいショックだなぁ。

とはいえ、彼女の様子からそんな様子は見えない。でもどういうわけだか、少しばかり勇気がいることらしく、冬森さんはやや俯きがちに小さくその愛らしい唇を開いた。

「あの。秋川君の、聞きたいんです。異性嫌いになった、訳というのを」

――時間が止まったかと思った。

彼女の発言というのはそれほどまでに衝撃的だった。背筋が凍るどころか、背骨がそのまま氷に入れ替わったかのような錯覚さえ覚える程だ。

なんだって冬森さんはそんなことを聞くんだろう。その手のことは、僕ら2人にとって触れるべきではない、ある種の禁忌なのではないのか。

今もその傷は、きっとお互いに埋っていない。僕ら2人は、この関係を続けることでその傷を風化させる意味もあったと思っていたのだけど。

できるなら、思い出したくない事ばかりなのだ。

「ごめんなさい。……どうしても、聞きたくて。話したくて」

僕の表情が凍りついたせいか、冬森さんは謝って――それでも、引かなかった。

132: ◆hwowIh89qo 2011/07/08(金) 23:31:56.99 ID:ll8QhN4I0
こうまで冬森さんが固執するならば、何か思うところがあってのことだろう。

あまり思い出したくない事柄でもあるけれど、他ならない恋人の願いでもあるのだ。

それに、彼女になら僕の傷を見せるのだっていいような、そんな気もする。

「わかったよ。でも長くなりそうだね。お菓子でも食べながら、ゆっくりいこう」

「そう、ですね。それで、秋川君はトースト、チャレンジしてみますか?」

冬森さんがメニューを広げて、ソレの写真を指差しながら言う。彼女の細い指先が示すその写真には、なかなかにおぞましいものが写っていた。

悪ふざけの総動員、ジュピトリス・トースト。ただのトーストとは訳が違う。なんというか、いろいろひどい。

使う食パンの量は一斤の半分。バニラアイスは巨大な丸い塊がみ三つほど。その上にチョコソースをアホみたいにかけて、さらにその上には生クリームをでっぷりと落す。

クリームの上にこんどはキャラメルソースをくまなくかける。そしてチョコプレッツェルを五本ほどクリームにさしたら完成。

トーストの壁面にクリームを塗るのもお忘れなく、といった感じかな。うわぁ。胸焼けがすること必須であろう。

「……ごめん、あんなこといっといてなんだけど、無理」

メニューの写真で得られる情報だけでこれだけあるのだから、実物はもっと何か隠されているとみていい。

というか、なんだこの一発で糖尿病コースは。というかこれは美味しそうなのか。この甘味の塊は。頼む人、いるんだろうか。

「流石にこれは厳しそうですね……。あ、私は予定通りミルフィーユにします」

「じゃあ僕は……いつもどおりチョコサンデーでいいや」

やっぱり、ジュピトリスといえばチョコサンデーだろう。僕が知っている限りでは、一番美味しいサンデーを作る店だ、ここは。

店長が異様なまでにロボットアニメファンだからイロモノにみられがちだけど、味はしっかりしている。

注文を済ませると、少しばかりの沈黙が僕らを包んだ。彼女は話を切り出すタイミングを、僕はどういう姿勢で聞けばいいのかを考えているといったところだ。

僕らのトラウマというのは、一朝一夕でなんとかなるものではない。僕らは互いに依存し合う関係ではあるけれど、異性に対する恐怖なんていうのは消えてはいない。

冬森さんが一切恐ろしくないのか、といえば嘘だ。女性という生物は大概打算的でエゴが強く、切捨て、裏切りに一切の躊躇をしないというのが僕の女性観な訳だ。

それに、今の社会のシステムは多くの場合、女性に有利なようにできている。男尊女卑の時代は殆ど払拭されたといっていいだろう。

古来から続く仕事なんかだと、多少は引きずっているかもしれない。しかし、それ以外では制度の改正や法整備の充実から、女性というのは強い存在となった。

そうして、それは今加熱しすぎている面がある。痴漢冤罪といったものがそうだ。何も証拠がなくとも、女性が適当な男性を痴漢だと宣言すればたちまちに彼は犯罪者となる。

取調べにおいて、証拠が出てこなくても――ひどいときには、そもそもその女性を触れる位置に彼が居なかったとしても有罪となってしまうのだという。

行き過ぎた女性擁護の発想が、悪魔のような女性を生み出したといっていい。

133: ◆hwowIh89qo 2011/07/08(金) 23:39:58.44 ID:ll8QhN4I0
話を僕らの関係に戻すなら、冬森さんは僕をハメようと思えば、春野さんのところにでも泣きながら行けばいい。

僕から受けた被害を少し捏造し、春野さんを上手い具合に丸め込み、そして春野さんが動き出したなら――詳しい事実調査もならないまま、僕は退学になるだろう。

無論、冬森さんがそういうことをするような人物ではないということは骨身に染みている。だけど、僕の脳裏にそういう光景が巣食っていることも事実なのだ。

そして、それはきっと冬森さんにもあるだろう。僕が何かをする、そんな光景を抱えているハズだ。それは僕達につけられた傷が放つ警告なのだろうから。

「……雨、降ってきちゃいましたね」

「帰りは、相合傘で帰ろうか。古風だけどね」

「いいと思いますよ。昭和ロマンといいますか、昔ながらって感じで」

僕らの沈黙を破る原因をまず作ったのは、秋の終りの雨だった。秋はその存在を大きく揺らしながら、やってくる冬に対して激励するように、雨を降らすのだ。

もう一週間もすれば、気温は急激に下がる。冬がくるのだ。冬の始まり、霜降と呼ばれる日が。

しばらくの間、先ほど冬森さんが切り出した僕らの傷についての話は遠ざけて‘昭和ロマン’について話していたところで、注文した品が運ばれてきた。

コーヒーの良い香りが鼻腔をくすぐる。甘いものに、苦めのブラックコーヒー。これ以上ないほどの組み合わせだ。

一番幸福な組み合わせといっていい。緑茶に和菓子も、同等の破壊力であることを僕は付け加えておく。どちらも、反則的なまでに幸福を生み出すのだ。

「ああ、ミルフィーユ、当たりでした」

冬森さんが嬉しそうな声をあげる。うーん。僕のチョコ・サンデーと比べても遜色ないほどの外見をしている。当然、こちらも極上の美味しさであるのだが。

「……っとと。いけません、ついお菓子に夢中になって」

「まぁ、あんまり根をつめても仕方が無いよ。話を続けようか」

当然昭和ロマンについて、ではない。僕の傷について、の話だ。最も、まだ話すとは言っていないけれど。

「秋川君。私、秋川君に私の傷を埋めてほしいんです」

僕の言葉を待たずに、彼女は言葉を続ける。

「そして、私は……秋川君の傷を、私で埋めたいんです」

そう、力強く冬森さんは言う。傷を、埋める。そう簡単な話じゃない。僕らは、お互いでさえ完全に恐れを払拭できないというのに。

「埋めるには、お互いに見せないといけないんです。辛くても」

「でもね、冬森さん。僕はあんまりいいことだと思えないよ」

本当に、必要なのかな。言葉面は奇麗に見える。それでも、はたして本当に必要なのかな。

僕らが経験してきた事というのは、他人に話しても面白いものではない。そもそも、話すようなものではないのだ。

134: ◆hwowIh89qo 2011/07/08(金) 23:43:03.32 ID:ll8QhN4I0
「必要、なんです。私達には」

「そうでもしないといけない、理由が?」

雨脚が強くなってきた。冬森さんはコーヒーを一口飲んで、喉を湿らせてから言葉を続ける。

僕もチョコ・サンデーの溶けかかったアイスを掬い、口に運んだ。口に広がる上品な甘さが、今はなんだか煩わしい。

「いつまでも、逃げていたら変われませんから」

「変われない、か」

「はい。その時の辛さを、私に教えてください。……私も、秋川君に全部伝えたいんです」

「……わかったよ、冬森さん。でもね、解かっていると思うけれど、このお菓子のように甘い話であるわけがないんだ。きっとね、このコーヒーよりも苦いものだよ」

「私も、そんなところですから」

どうにも、仕方ない。僕は彼女に、僕のその過去を話すことにした。思い出すだけで気分が滅入ってくる、小学から中学までの思い出を。

正直、深く話したことは無い。夏原にさえ全ては話していないのだ。それを彼女に話すのだから、少し気後れする。

「そうだね。あれは――本当に、僕は運がなかったんだと思う」

そうして、僕は話し始めた。本当に、些細な切欠で僕の苦痛の歴史というのは始まったのだ。それは不運以外の何者でもない。

8年から9年ぐらいにかけて続くようなものでも本来ないだろう。

冬森さんは神妙そうな表情で僕の話に聞き入っていた。僕も僕でチョコアイスが溶けるのも構わずに、話を続けていった。

認めざるを得ない。話してみれば、何だか僕の今まで体験したその苦痛が、全て冬森さんに吸い込まれるような錯覚さえ覚えたのだから。

本来、どうしようもないはずの過去ですら救ってしまうような――そんな感覚を覚える。

「そんなことが、あったんですね」

話し終えると、冬森さんはそう言って、息をついた。僅かに肩が震えているのが解かる。

それがどういう種のものなのかは、僕にはよくわからない。いや、想像がつかないものでもないが、それはなんとなく、僕のナルシズムのような気がして口にはしなかった。

「どうして、そうなってしまったんでしょう」

「僕は運が悪かった。それだけだよ」

「運、なんていうもので片付けるのは、どうにも理不尽な気がします。秋川君は、そんなに苦しむことになったのに。本当に、理不尽です」

「僕も理不尽だと思うよ。でも、不運っていうのは理不尽だからこそ不運なんだと思う」

「そうかも、しれませんね……」

それきり、冬森さんは少し俯いて、しばらく口をつぐんだ。しかし、今度は自分の番だということもあってか、無理に笑って話し始めた。

「そういうことなら、私も、ひどく運が悪かったんだと思います」

135: ◆hwowIh89qo 2011/07/08(金) 23:46:07.96 ID:ll8QhN4I0
その日、帰りが遅くなった冬森さんは帰宅途中に、ある初老程の男性に話しかけられた。

なんでも、道に迷ってしまった、ということだった。幸い、場所は通り道にあったので、そこまで案内することにした。

さしたる問題はなく冬森さんと男性は目的地にたどり着き、男性は冬森さんにお礼を言って、そこで別れたという。

それだけで話が終わればよかったのだが、そうはいかなかった。

翌日、冬森さんは身に謂れの無い暴言を吐かれることとなる。自分が昨晩、身売りをしたことになっていたのだ。

どうやら、道案内を途中で見ていた人がいて、曲解して言いふらしたようだった。

一度放たれた噂は留まるところを知らず、男子生徒には総じて変な目で見られ、女子からの扱いも悪化の一途を辿っていた。

そして、それを発火点として、彼女の苦悩は筆舌に尽くし難いものとなる。

女子グループからは必死の弁明の甲斐もあり、一定の庇護を得ることができていた。

しかし、男子生徒からの奇異の目、取り分け極めて暴力的な◯◯が入り混じったような好奇心と興味の対象となることを防ぐことはできるハズもなかった。

‘一晩幾らするのか’と冷やかすような、本心のような調子で語りかけてくる男子も少なくなく、離れたクラスにもなると実際に金銭を持ってくる人物まで出てきていたのだという。

そんな調子が三年生の夏まで続き、そうしてその夏に、冬森さんの男性恐怖症は完成することになる。

ある日に、無理矢理男子トイレに連れ込まれ、衣服を剥ぎ取られそうになったのだ。

彼女が激しく抵抗したことで犯人は逃げ出した――要するに強姦未遂事件なのだが、この件が表面化することはやはりなかった。

理由としては、未遂で終わった上に犯人が逃亡したことと、冬森さんがその件を卒業まで誰にも話さなかったからだ。

「理不尽、だね」

「はい、本当に――お互いに、不運でした」

そう、冬森さんは笑っていたが、どうにも無理をしているように気がしてならない。本当に、こんな傷を見せあうような真似をしていいものなんだろうか。

お互いを知るという意味では大きな意味があるようにも思えるのだけれど。或いは、恋人なんて過去を秘めているぐらいがいいんじゃないかと思わないでもない。

「でも、いいんです。もう、私にひどいことを言ったり、する人はいませんから」

「……そう、だね。もう誰も僕に濡れ衣を着せて、責めたてたりしない」

少しの沈黙を置いて、冬森さんは穏やかな微笑を湛えて言う。

「だから、きっと傷だって埋められます。私――秋川君が、大好きですから」

その笑みは、それこそ理不尽だと思う。だって、そうだろう。そんなことを言われてしまったのなら、僕のトラウマなんてたちまちに氷解し、霧散してしまう。

そうして、自分自身の気持ちも強く思い知るのだ。

「――ああ、そうだね。僕も、冬森さんをこんなにも好きになっているから」

外を見れば、雨は止んでいた。長かった秋雨は終り、霜降の日々がやってくる――。

142: ◆hwowIh89qo 2011/08/05(金) 21:02:41.98 ID:5NnwS6H/0
アップル・キス

季節は冬も盛り。二十四節気でいうならば大雪で、ここ八木市にもちらほらと雪が降るようになってきた。

そう、季節はまさに冬。クリスマスを近くに迎え、クリスマスの足音が聞えてくる。

――僕の愛しい人、彼女の季節がやってきたのだ。

さて。文化祭以降、僕、秋川秀一はクラスメイトであり、“絵本部”の仲間であった冬森雪花という一人の女子生徒と恋人となった。

クラスで僕と彼女の評価は“似た者同士”といったやつで、友人の夏原智一、並びに彼女の親友である春野都子の二人は“当然の帰結である”と僕らを祝福したものだった。

しかしながら、お互いに異性恐怖症というものを抱えていた僕らは世間一般の高校生カップルとしてはいささか、健全に過ぎるらしかった。

何せ、あの文化祭から二ヶ月は経過しようとしているが、キスがまだなのだ。

ただの偶然だろうというのが僕の考えだが、夏原なんかにとっては意外なことだったらしい。

最も、彼なんかは格闘技のしすぎで僕なんかより余程自制できそうなので人のことを言えるのかどうかは怪しいものだが。

そこは春野さんとの発展次第といったところか。彼は鈍感なので、春野さんの気持ちにいつ気付くかが問題となるだろう。

閑話休題。何も僕らはそう飢えた獣でないのだから、愛を知る手段が◯◯◯◯に限られているわけでもない。

であるからにして、◯◯をお互いに満たし合うような行為は時期尚早というのが共通の認識である。

そもそも彼女や僕はお互いに過去での傷を抱えているわけで、とりわけ彼女の場合は性と繋がっている面もある。

無理をしてはいけない。とはいっても、やはりキスは恋人という関係において大きなモノであるらしい。

彼女も、キスと◯◯◯は別と捉えているらしく、抵抗はないとの話だった。

それなら、一つや二つ試していてもおかしくないのだが、不思議なことに機会に恵まれないでいる。

――そんな感じの話を帰り道、彼女としていたら、彼女はおずおずとした様子で口を開いた

143: ◆hwowIh89qo 2011/08/05(金) 21:05:39.03 ID:5NnwS6H/0
「当然ですけど、私、やったことないんです」

「僕もだなぁ。キスといっても種類があるわけだしね」

掌や手の甲。額や頬。目蓋なんてこともあるらしい。

場所だけでも何やら多様で、やり方についてもやはりルールのようなものがあるのだろう。

「……やってみたい、ですか?」

「冬森さんが嫌なら、僕は望まないよ。でも冬森さんがいいなら、僕はきっと求めるよ」

「そういう言い方、秋川君らしいです」

彼女はそうクスリと笑うと、一歩前に出てから僕の方へと向き直る。

「ねぇ。秋川君。今日もジュピトリスに行きませんか?」

「そうだねぇ。アップルパイとかいいね。紅茶といっしょにさ」

「いいですよね。アップルパイ。リンゴをシロップで煮ているんですから、どうしたって美味しくなるんですよね。

パイもサクサクで。そこに紅茶の香りともなれば」

「そうだね、ジュピトリスは暖かいだろうし。行こうか」

さて。この木星船団のような名前の喫茶店に僕らが入り浸るのには理由がある。

何も僕らがロボットアニメファンというわけではなく、単純にこのお店が出す各種お菓子が美味しくて学校から近いところだ。

他のお店、例えば和菓子の“風鈴堂”なんかは飲食スペースがないからいけないし、スイーツバイキングの“シュライン”なんかは遠すぎる。

よって、“ジュピトリス”に入り浸るようになったといったところだ。

ジュピトリスでは、なるべく人目につかない、奥まった席が僕らの指定席と化している。

この、程ほどに人目を気にした態度が僕ららしくていいと思う。例え、僕らの関係が公然のものであったとしてもだ。

席について、木星帰りの人らしい店長にアップルパイと紅茶を注文する。

ここのアップルパイは、シナモンが絶妙のバランスで振りかけられているところがポイントだ。

本当に、僕達好みの味というか、余程のこだわりがないと出せないバランスを実現させている。

そして、何よりしっかりと“甘い”のも特徴だ。最近では健康志向からか“あんまり甘くない”お菓子が流行っているらしいのだが、そんなものは紛い物だ。

誰もが夢見た甘いものであるから夢が詰まっているというのに、余計なお世話である。

144: ◆hwowIh89qo 2011/08/05(金) 21:08:31.63 ID:5NnwS6H/0
「それにしても、キス、ですか」

運ばれてきたアップルパイにフォークを突きたてながら、冬森さんはどこかボーッとした調子でそう言う。

どういうものか想像がついていないのかもしれないし、あるいは脳内でシミュレートしているのかもしれない。

実際のところ僕もどういうものなのだか良くわかっていない。世のカップルはこのような問題を何の躊躇いもなく突破しているのだというから偉いと思う。

情緒的なものはどうなんだ、という気はしないでもないが。

「レモン味らしいよね」

ファーストキスは淡いレモンの味。昭和の匂いが漂うフレーズである。

そういえば、以前もここで昭和ロマンについて話したっけ。その時は確か相合傘だったか。

あの時は雨が止んでしまったからできなかったけど、今度は是非実行に移したいと思う。

「今やったら、リンゴ味ですけどね」

サクサクと、僕らのアップルパイの減りは早い。紅茶も、何もいれないストレートにしたのがまた正解だった。

パイの甘さを紐解くように、口の中で紅茶が溶かしてくれる。

「まぁ、果物の味ってところには変わりないね」

もっとも、シナモンというスパイスは加えられているけれど。何だかその方がお洒落なような気がする。

ほら、淡いレモンといったって、味がするんだかしないんだかわからないようなレモンフレーバーのミネラルウォーターみたいだったらあんまりいいものじゃないだろうし。

あれは本当に美味しくなかった。だからか最近では見かけなくなったなぁ。

「そうですね」

クスクスと、冬森さんはそう楽しそうに笑った。僕もその笑顔に釣られて笑う。本当に、冬森さんは笑っている時の表情が一番可愛らしい。

「そうじゃなくて、世間の人達はどんな調子でやってるんでしょうね」

「国柄にもよるよね。挨拶程度の認識の世界もあることだし」

ただ、僕らは何と無く価値観が昭和後期の日本並。あちらは先進国すぎる。

僕らは、手と手が触れただけで赤面したり、相合傘にロマンを感じたり、ファーストキスはレモン味という言い伝えを信じているような世界の住人なのだ。

若者の性が乱れている今日において、僕らぐらい微笑ましいカップルというのもないだろう。

「やっぱり、軽いものなんでしょうか」

「あるいは、ね。ただ、僕らの間ではそれはもう重いものだと思うよ」

「ねぇ、秋川君」

僕は口を挟まず、続きを聞くことにした。そもそも、止めるつもりなんてさらさらない。

これぐらいだったら、何も止めるような理由もないかなといった許容範囲内だからだ。

「――キス、してみませんか」

「うん。喜んで」

145: ◆hwowIh89qo 2011/08/05(金) 21:11:03.43 ID:5NnwS6H/0
でもとりあえず、お店から出たらね。

流石に衆人環視の前で事に及ぶ程僕のメンタルは強くない。望まれれば、断りきれないとは思うけど。

僕は最後のパイの欠片を口に運んで、暖かな紅茶で流し込んだ。

「ねぇ、秋川君。キスって、どんなものなんでしょうね」

彼女は紅茶の最後の一滴をゆっくりと、可愛らしい仕草で飲み込んで、そう悪戯っぽく笑いながら言う。

勿論、僕はわからないな、と苦笑するしかない。でも、折角なんだから。ここは一つ、それらしい、クサい言葉でも吐いておくのが様式美ってもんだろう。

「そうだね。良くわからないけど、きっと素敵なものなんだろうね」

「ですよね。雪の降るクリスマスでも、雨の降る街中でも、朝日の昇る海岸でもないけれど――私達がそうするのなら、きっとどこでも素敵ですよね」

楽しそうに、でもどこか夢でも見ているような様子で彼女はそう、笑いながら言う。

世間一般のカップルなんていうものは、キスの一つにここまで話を広げないだろうとは思う。

でも、この言葉遊びのような、このやり取りが僕らにはたまらなく楽しいのだ。

「……出ようか?」

「はい。アップルパイ、美味しかったです」

会計を済ませて、僕らは店の外へ出る。日が沈むのがもう随分と早くなったせいか、まだ17時を過ぎたぐらいなのに随分と暗い。

女の子を一人で歩かせるには心配だ。

「寒いです、秋川君」

「そうだね」

身を刺すような寒さに震えながら、僕らは手を繋いだ。

しばらく歩いて、段々と人通りも少なく、街灯の明かりだけになってきたところで、冬森さんがどこか上ずった声をあげる。

「ねぇ、秋川君」

「何かな。冬森さん」

勿論、解かっている。冬森さんは僕をどこか恨めしげに上目で見つめながら、抱きついてきた。背中に腕を回されて、彼女の身体が密着する。

「キス、しましょう」

「そうだね」

冬森さんは抱きついた状態のまま、そっと背伸びをして、目を閉じた。僕もそれに応じて、目を閉じて彼女と唇を、そっと重ねる――。

ややあってから、ようやくその長いキスをやめる。触れているだけのものだけど、ひどくドキドキする。

心臓がひどく早鐘を打っているのが、くっきりと解かるほど。

「もう一度、もう一度したいです」

「何度だっていいさ。冬森さんがしたいなら」

「あきかわ、くん」

146: ◆hwowIh89qo 2011/08/05(金) 21:13:25.35 ID:5NnwS6H/0
冬森さんはそう、うっとりとした表情でいて――続けて、僕に唇を重ねた。

僕はそれに応えながら、ゆっくりと冬森さんの背中に腕を回していく。

お互いに抱き合ってキスをしている状態で、他人に見られたらと思うと恐いものがある。

でも、それ以上に、この状況は僕達を興奮させるのに充分すぎる威力をもっていた。

冬森さんの柔らかな唇が、直接僕の唇に触れている。ジュピトリスで笑いながら言ったように、僕らのファーストキスの味はリンゴの味がした。

長く、永く。時間が止まったかのように、僕らは長い間キスを続けた。

「……やっぱり、すてきです」

蕩けたような視線で、虚ろに僕を見つめながらほう、と息を吐いた。艶かしい状態ではある、とは思う。僕に獣欲の類がないと言うわけでもない。

この状況は大変に魅力的だと断言してもいいだろう。もう少し場所が違ったのなら、僕は何か勘違いをしてしまいかねない。

どうやらキスというのは精神を冒してなお足らぬ、麻薬のようなものであるらしい。

麻薬に純度というものが求められるように、キスの当事者の関係、シチュエーション、キスの種類で恐らく万通りものキスの効果というものがあるのだろう。

言うなれば“キスの純度”というものか。今のキスは、相当に純度が高い。

「きょう、は」

口をパクパクさせながら、冬森さんが何かを訴えている。

上手く呼吸か、それとも言葉が思いつかないのか――それはよくわからなかったが、とりあえず落ち着けようと、彼女の背中をそっと擦ってやる。

そうすると、幾分か落ち着いたのか、彼女は照れたように笑って言葉を続けた。

「今日は、家に、みんないるんです」

「……クス。そうだね、僕の家にも、みんないるさ」

冬森さんの言わんとしたことが解かった。これも、昭和ぐらいに流行ったような言葉の裏返しだ。

「今家に誰もいないの」そう女の子の口から出たならば、それは……というわけだ。それの反対なら、当然意味合いも正反対。

「帰ろうか」

「はい。今日は楽しかったですよ。記念日にもなりましたし」

「次からは、もっと積極的にできるかな」

抱き合うのをやめて、また僕らは手を繋いで歩き出す。

「そうですね。キス、だなんて意気込むんじゃなくて、……こう、ちゅー、なら」

「それも久しぶりに聞く表現だなぁ。ちゅー、か」

やっぱり最近では言わないような気がするなぁ。ちゅー。或いはチュウ。

有名な歌があるから多少は言葉が残っているのかもしれないけど、実際に使う人はどれだけいるだろう。

「変でしょうか?」

「いいや。案外、僕達らしい表現でいいかもしれないね」

「かわいらしい響きですもんね」

冬森さんは少し上機嫌そうな様子で、僕と一緒に歩いている。

手を繋いで歩くっていうのは、なんだか――ひどく安心してしまう。幼い時の記憶から着ているのか、それとも。

「ねぇ、秋川君。私達、本当にお似合いの恋人ですよね」

「うん。きっと、そうだね」

――この愛しい笑顔の、その輝きが僕に向けられている。それを確かに実感できる行為だからなのかもしれない。

154: まるで幻のよう ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 20:56:13.12 ID:uH8thC/k0
一つの物語のプロローグから、エピローグまでを俺達は見てきた。

友人の、その淡く甘い恋のお話を、あくまで俺は、俺たちは外野から見つめていた。

だからだろう。まさか自分自身が役者へとなるのとは夢にも思わなかった。

――しかし、そんなのはおかしな話だったのだ。生きているのならば、否応なく自分自身を演じきるしかない。

観客であるという認識がそもそもの間違いで、俺は最初から舞台に立っていたのだから。

文化祭も終り、とうとう最後の絵本部の活動が終了した。

これを機に絵本部は事実上の解散となり、このまま廃部ということになる。

ずっと新入部員が入ってこないというのも珍しい話ではある。

噂によれば、秋川と冬森のコンビが幸せすぎてその輪に入れるような気がしない

――というのがあったらしい。どこまで本当なのかは知らないが。

「……で? 何をどうしたんだ、秋川よ」

優良な生徒であるハズの秋川が、今日ばかりは学校にくるなり机に突っ伏して頭を抱えている。

いつも一緒に来ている冬森の姿は見えない。何かあったと考えるのが自然だ。

「悪いことをしたくなったんだよ」

「悪いこと?」

「冬森さんとお酒を飲んだんだ。……僕達は弱いらしくてね、二日酔い」

「学生らしからぬ頭痛を抱えているな、随分。何をどんだけ飲んだんだ」

「それぞれチューハイ一本ぐらい……」

「……弱いな」

恐らく未だかつて無いぐらいだ。それぐらいで二日酔いになってしまうものなのか。

しかし、軟弱な秋川と冬森ならばそれもありえる、か。

“当然の帰結”秋川、冬森ペア。彼等は何もかもがそっくりで、恋仲になるのはある意味必然であった。

とはいえ、二人は異性恐怖症を抱えていた。絵本部の活動を通してそれを克服していっていなければ、また結果も変わっていただろう。

八木東高校において一番幸せで、一番小さなカップルと言われる彼等が出した絵本は、それなりに校内で好評を得ている。

そのため、絵本の存在を知る人間は広くに渡っているようだ。それは勿論、二人が幸せ絶頂であることも含めて。羨ましい、とは思うまい。

155: まるで幻のよう2 ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 20:58:26.45 ID:uH8thC/k0
二人をここまで導いたのは、俺と春野がお膳立てしたから、というのもある。

しかし、俺たちはあくまで、船を川へ押してやっただけだ。

事実、二人は、俺たちも驚くような進展で、あれよあれよという間に、幸福を具現した存在となった。

――だから、それでいい、と俺は思っていた。俺の親友が、ここまで幸せになった。

俺はその手伝いができた。だから、それでいいと。

しかし、ある時から、奇妙な気持ちが心をよぎるようになった。

幸せそうな秋川と冬森を見ていると、俺自身に何かが欠けているような、そんな気持ちがあった。

それから、俺が好きな格闘技は一切の精彩を欠き、ついには全てやめてしまった。

心の底から楽しめないのでは、悪戯に人を倒す術を磨くだけだ。

自分の心を誤魔化すためでは師や仲間に失礼が過ぎる。心を無にするだけならば、単純な運動で事足りる。

「夏原? 具合でも悪いの?」

「……あ、いやすまん。少しボーッとしていた」

気付けば、秋川に心配されるほど上の空だったらしい。

――やめよう。センチメンタルに浸り、どうしようもない思考に没頭するのは、俺には合わない。

「珍しいね。悩みでも?」

「悩み以前の問題だな。何に悩んでいるのかに悩んでいる」

「哲学だね……」

そう、何に悩んでいるかで悩んでいる。本当に奇妙なものだ。

「夏原君」

そこに、明るい声が飛んできた。春野だ。また何かあるらしい。

正直、何かする気分でもないが、仕方ないか。他人には関係のない話だしな。

「何だ。どうした?」

「いいからこっちきて。じゃあ、秋川君。借りていくわよ」

「返さなくてもいいですよ」

「そう。それは何よりね」

こうして俺は売られてしまった。これではドナドナだ。

廊下にまで春野に連れられていくと、彼女は二枚の、チケットを取り出した。――また、らしい。

156: まるで幻のよう3 ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 21:00:50.48 ID:uH8thC/k0
「映画ぐらい、秘密にしなくていいと思うんだが」

「……だって、秋川君の前で誘うのも、恥かしいから」

「恥かしい? ……よくわからんが、まぁ、そういうことなら」

「今回こそは、夏原君も恐がるような和風ホラーよ」

そう言って、チケットを突き出してくる。一枚を受け取ると、有名なシリーズものの映画だった。

そうか、新しいのが出るのか……。確かに、肝を冷やすような演出の多いタイトルではあったが、春野はそういうのは苦手だったハズ。

ホラーはホラーでもゾンビ物。要するに洋風ホラーで、ピストルで切り抜けるのがお決まりのパターンなのを好む。

……そう記憶していたんだが。今回は俺を恐がらせるのが主目的らしい。

「……まぁ、大丈夫か」

「何が?」

「春野が悲鳴をあげても、多分同じシーンで悲鳴を上げる人が多いだろうからな」

「じ、自分の心配をしなさいよ? 私、夏原君が恐がって、私にひっつくのを期待してるんだから。その時は、もう思いっきり笑ってあげるわ」

そう虚勢を張るのもいかがなものだろうか。

彼女は、ゾンビが画面に出てきて襲ってくる度に悲鳴をあげる程度のハートのハズなのだが……。

今回のタイトルは、それを考えたら少しばかり恐すぎはしないだろうか?

ここまで続いたシリーズものだ、あの手この手でこちらを恐がらせてきそうなものだが。

「じゃ、今日の放課後だから、ソレ」

「えらく急だな。俺に用事があったらどうするつもりだったんだ?」

ここまで突飛で無計画な誘いというのも、珍しい。

格闘技を辞める前なら――今日は合気道の日だった。

誰にも辞めたことは教えてないのだが……。

「ないって知っていたから、誘ったの」

「……そういうものか」

どういう経路で俺の予定を調べたのかは知らないが、まぁそういうことらしいので諦めることにする。

俺はお世辞にも頭が良いとは言えないわけで。学年一位の成績の春野をいちいち疑っていたのではキリがない。

頭が良い人間っていうのは、それだけで周囲から見て疑問が巻き起こるというものだ。

たいていの場合、その疑問は理解の不足に起因する。それを知っているなら、黙っているのがせめてもの賢さってやつだろう。

157: まるで幻のよう4 ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 21:02:50.24 ID:uH8thC/k0
「放課後のデートなんだから、嬉しそうにしなさい?」

「花は開かないし、実も結ばない。そんな草の発芽をどうして喜べるんだ」

数回、彼女が隣で歩いているのを他人に見られている。

数回、彼女と笑みすら浮かべて会話しているのを、他人に見られている。

……噂にもならない。周囲にとって、俺は彼女の従僕。そんな評価だ。

意地の悪い春野のことだ、俺がどこか本気にして、ぬか喜びするのを心の片隅で期待をしている。

「あら、まだ発芽すらしてないわ。それに、花も開けば、実も結ぶわよ。……芽が枯れなければ、それはね。夏原君が言ったのは、オモチャよ」

そう、性格の悪い笑みのその皮一枚下に、何故か寂しそうな表情の春野が見えた。

しまった、と思ったときには遅い。謝るのは不自然だ。言葉の取り消しも、適当ではない。

「……なら、そうだな。映画を見終わったら、芽吹くぐらいはしているか」

「あるいはね」

彼女は今度こそ、本当に笑ってみせた。

放課後。秋川と冬森が二人並んで教室を出たところで、まず春野が追随するように出て行った。

春野が二人をからかう声が聞えてくる。……時間差で出るように、とのお達しだ。

変なところで変なものを気にする女だ、と今更言っても始まらない。

教室の窓から、秋川と冬森が春野と別れたのを見計らって、俺も教室を出る。

「このバスに乗るのも慣れた」

「別に悪いことではないでしょう?」

学校の前にあるバス停からバスに乗り込み、映画館が組み込まれたショッピングモールへとバスは向かう。

車内は、当然だが多くの八木東高校の生徒で溢れており、中には見知った顔もちらほらいる。

皆が皆ショッピングモールに行くのが目的というわけでもないだろうが、それでもその数は多いだろう。

「バス代がかかるな」

「往復400円程度、毎回ってわけでもないんだから気にしないでよ」

「金額の大小ではないがね。……まぁ、いいか」

「ええ。映画が私達を待っているわ」

進んでホラーを見たい程、心臓に自信があるというわけでもないんだがね。

お化けには鍛えた肉体は通用しないわけだし、いないいないと信じているからいざ出てこられると対処のしようがない。

そんなわけで、恐いもんは恐いんだが。……まぁ、いいか。

どうせ恐怖の表情に染まりに行くことになるのに、どうしてそう楽しそうに笑えるのか。

ホラー好きっていうのは、皆こうなんだろうか?

158: まるで幻のよう5 ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 21:05:37.36 ID:uH8thC/k0
今思えば、妙なことだと感づいても良さそうなものだった。

春野の今日の行動は、少しばかり怪しかった。急に映画に誘うし、あの凍りついたような表情。

そして、俺は失念していた。彼女の家は門限が厳しいことに。

普通なら、放課後、つまり夕暮れに映画に誘うことなんてしない。

家につくころには、21時か22時頃になるだろう。

彼女はソレを知って俺を映画に誘ったのだ。何か、何か裏がある。

「――っ!」

裏が、ある……。暗い館内、暗い画面。湧き出てくる怨霊と絶叫と悲鳴。

ほう、ヒロインの首が飛んだ。鋭利な刃物でズバリ。

和的な陰湿な恐怖と、洋的な明快な恐怖を組み合わせてきたか。

なるほど。とまぁ、俺が感心しているところに春野が先ほどの声なき悲鳴をあげながら、俺の袖を引っつかんできた。

……やっぱり恐いんじゃないか。

「よく平気ね」

ぐずぐずと、涙声でそう言われる。彼女のレアな音声なわけだが、もう数回は聞いた。

普段が普段なだけに、こう弱気になっている春野は確かにそそられるものがあるような気もするが……。

毒婦と知って近づく必要もなし、だ。

「鍛えているからな」

「筋肉馬鹿……」

返す言葉もない。いやだが、肝が冷えるのは確かだ。

夢に出たなら、確実にうなされるぐらいの自信はある。俺の場合は恐いんじゃない。

やせ我慢をするのが得意ってだけだ。

映画も佳境に入った。流れる音楽もおどろおどろしく、何かの童歌がいい具合に加工音声となってこちらの恐怖心を掻きたてる。

そして、主人公はその命と引き換えに、怨霊達を未来永劫封じることに成功した。

誰一人助からぬエンドではあったが、上手くまとめた終わり方だろう。

「……立てるか?」

明るくなっていく館内。春野はすっかり放心し、腰が抜けたようだった。

顔は涙でぐしゃぐしゃになってしまっている。

「仕方ないな……」

ハンカチで涙を拭ってやる。無抵抗でされるがままな所を見るに、よっぽど恐かったらしい。肩を貸して、そっと立たせる。

「夏原君は恐くなかったの?」

「……鍛えているからな」

二回目のやり取りだ。なかなか自分の足で立てないようなので、仕方なくこのまま外に出る。

……この様子じゃ今晩は眠れないだろうな。トイレにもいけるかどうか心配だ。

159: まるで幻のよう6 ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 21:07:43.11 ID:uH8thC/k0
結局、春野が立ち直ったのは、バスで学校前についてからだった。

車内では平静を保とうとしていたようだが、それでも身体が時折震えていたように見えた。

誤魔化そうとしていたのか、いつもより遥かに口数も多かった。

「……はぁ。帰ってきちゃった」

「帰りたくない、とでも言うつもりか?」

「……そうかもね」

映画の影響じゃないだろうが、彼女の表情に翳りが見えた。

帰りたくない、か。まぁ、門限はとっくに過ぎているだろう。

現時点で20時の半ば。家について21時過ぎといった具合か。

しかしそれは自業自得というものだろう。小言の一つ二つ、甘んじて受けないといけない。

春野の家での取り決めがどうなっているかは知らないが。

「両親と進路で揉めてて……つい、逆らってみたくなったの」

「……それで、か。両親への小さな反逆程度で、俺の予定の調査、チケットの取得までやるんだからな……。春野らしい」

「いざやろう! って思った日に夏原君がダメだったら、どうすればいいのかわからなかったからね。

……チケットは、たまたまよ。抽選で当てたのがあったの」

「……なるほど。あの映画なのは、たまたまだったのか」

それなら、苦手な和風ホラーを選んだのも頷ける。

他に口実がなかったから、仕方なくということだったのだろう。

「それで、気は済んだか?」

……人の家庭事情に首を突っ込む趣味もないが、春野の行動は反逆ともいえないものだ。

何の意味もない。子供の悪戯ぐらいのレベルなものだ。自然、口調も厳しくなる。

「何も変わってない。何も変化がおきていない。両親と喧嘩して、自分の考えだったり思いだったりを否定されて頭にくるのはわかる。

自然だとは思うがね、それへの抗議に、家でのルールを破っても何も変わらない。何もわかってくれはしない」

「……そうね、わかっているハズなのにね」

自嘲するように、春野はそう言って頷いた。

自分自身でもわかっていた、か。なるほど、俺が言うようなことぐらい、春野がわからないハズもない。

しかし、わかっていながらあえてやるということに如何ほどの価値があるというのだろう。

160: まるで幻のよう7 ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 21:09:44.62 ID:uH8thC/k0
「自分でもわからないわ。どうして、腹立たしく思うのか。

どうして、こうして約束まで破って、わざわざ恐い映画を見に行くのか。

良くないってわかっているのに、それでもする意味、したいと思った理由。

全部、私の中に答えはあるハズなのに、わからないのよ」

何か言おうと思って、何を言えばいいのか思いつかなくなった。

彼女のどこか寂しそうな表情に、思考が乱された。

俺は頭が良い方じゃない。彼女が何を思って今回のことを実行に移したのか、本人にわからないなら俺がわかるハズもない。

「とにかく、帰るぞ。もうこんなに暗い。何を言おうが、一人歩きはさせられんな」

「……あら。一年のころは、私が大丈夫だって言えば良かったのに?」

「事情が違う。不安定なお前を、放っておけるほど無責任じゃないんだ、俺は」

俺がそう言うと、クスリ、と小さく彼女は笑った。

腹の中を透かされているようで、あんまりいい気分はしないが――でもどこか、美しいと感じた。

「なら、そうしてもらうとするわ。……ちょうど、一人で歩くには寂しいと思っていたの」

「だろうな。叱られると解っていて、一人で帰路につくんだからな」

「……あら、夏原君になら、お説教されるのも好きよ?」

「そうかい。……まずは、両親から説教してもらうんだな」

「……そうするわ」

それから、大した会話もなく、俺は春野の隣を歩いた。

そうして、もう少しで家につくといったところで、彼女が不意に立ち止まった。

「ねぇ、夏原君」

ゆっくりと俺の方に向き直り、少し不安そうでいながら、それでもいつもの挑戦的な態度と笑顔で、俺に問いかけてくる。

「……花も開かないし、実も結ばないと言ってたわよね」

「……ああ。お前は花も開くし、実も結ぶと言った」

「夏原君は、どうあってほしい?」

どうあってほしい、か。まるでなぞなぞだ。

……俺は考えるという行為自体得意じゃない。答えなんて、最初から決まっている。

「もちろん、開花し、結実するほうだ」

なら、と彼女は言葉を続ける。

161: まるで幻のよう8 ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 21:13:16.95 ID:uH8thC/k0
「安心していいわよ。……それに、もう花ぐらいなら開いているわ」

「……まどろっこしいな。俺は自惚れ屋のつもりはないが、それでも不安だ」

俺は、この手の言葉遊びも得意じゃない。

何を言っているのかわからなくなるからだ。相手が何を言いたいのかも、掴めない。

「私ね、夏原君の事が好きなんだと思うわ」

不思議と、思考は冷静なままだった。

突然の告白、予期せぬ好意の知らせ。慎重に、言葉を捜しながらそれに答える。

「いいのか。俺なんかを好きになっても不毛だぞ。生涯における汚点になる」

「それでもよ。私、好きなものは手に入れたくなるの。……夏原君を私のものにしたいと思うのも、当然でしょう?

雪花は、秋川君にあげちゃったもの」

「代用品にはなれんぞ」

「当たり前よ。言ったでしょう。私は、夏原君が欲しいの」

欲しい、か。……この身を気に入ったとあれば、投げ出そう。

春野になら、それも悪くない。なんだかんだで、俺も彼女のことは十二分に気に入っているのだろう。

――恋愛感情じみたものも心のどこかに巣食っていた。結果だけで言うなら、願ったりだ。

「……しかしなぁ。それでも、その言い方はなんとかならんか。誘惑されている気分だ」

「なら、改めるわ。……好きよ、夏原君」

「…………すまん。俺もだ、と言いたいところだが無理だ。行動で示すから勘弁してくれないか」

「行動って?」

わかっているくせに、そう聞き返してくるところが春野らしい。……しかし、それなら精々驚かせてやるとしよう。

そっと彼女の背に手を回して、抱きしめてやった。柔らかな彼女の肌が布越しに密着する。体温が伝わり、息遣いも感じる。

自分の心臓の高鳴りが、彼女に伝わってしまわないか――変なところで、不安になる。

162: まるで幻のよう9 ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 21:15:21.03 ID:uH8thC/k0
「……驚いた。行動力はあるんだから」

「悪いな。不器用だからこういうことしかできん」

俺は秋川のように繊細でもなければ冬森のように素直でもない。

あの二人のような恋仲なんぞ、望むべくもない。春野が俺を求めるというのならば、俺はそれに応えてやるだけだ。

少しでも俺が欲を出してしまえば、恐らくそれは◯◯と征服欲に彩られてしまうだろう。

自制は出来る方だと思ってはいるが、何の拍子でタガが外れてしまうかは解らない。

それだけ、春野という一人の少女は魅力的だ。だからこそ、俺の手で壊してしまうようなことはあってはならない。

――それに、この手に収まる彼女の暖かさだけで、満足でさえある。

「これからも、私を叱ってくれるかしら?」

「危なっかしいからな。調子に乗るなら、いつでも」

「……なら、相応に愛してくれるのよね」

「それを望むなら」

「なら、抱きしめるだけじゃあ足りないわよね」

くすくすと、彼女は何かを企んでいる風に笑って、少し照れが入ったような様子で言葉を続けた。僅かに、震えた声。

「なら、キスぐらいできるでしょう」

こういうのは、思い切りが重要だ。――そっと、彼女に口づける。

触れたか、触れないような曖昧な、幻のようなソレ。

それでも、それ以上は流石に辛いものがあった。必死に誤魔化しているが、いい加減恥かしい。

「……うん。それじゃあ、私はもう行かないとダメね。本当に、今日は小言が多そうだわ」

あまりにも短い口づけを終えると、彼女はどこか楽しそうに、そう弾んだ声で言った。

「まぁ、そこは諦めてくれ」

彼女は参ったように笑いながら、俺の腕から離れていく。俺は踵を帰して、来た路を引き返した。

163: まるで幻のよう10 ◆hwowIh89qo 2011/09/09(金) 21:16:41.97 ID:uH8thC/k0
しばらく歩いて、立ち止まり夜空を見上げる。今夜は月が大きく丸く見え、星空が広がっていた。

まるで現実感がない。それこそ、幻のようだ。確かな充足感を抱きながらも、今が現実だとは思えない。

俺と春野では不釣合いが過ぎる。彼女には、もっと相応しい男というものがあるはずだ。

恋は盲目とはいうものの、俺の何がいいのかわからない。

当然、嬉しくはある。彼女のことを気に入り、好きでさえある。全てが充足している。

それでも……いや、それだからこそ、いまいち現実味が感じられない。宙に浮いているような気分だ。

……慣れの問題だろうか。

――まぁ、いいか。

考え事は得意ではない。答えが出てこないなら、しばらく考えても同じだろう。

それならば、あれこれ考える前に身体を動かすほうがよほど建設的だ。

家まで離れてしまっていることだし、ジョギングには丁度いいぐらいだろう。

「……ま、また、あしたってところだろうな」

考えたり悩んだりするのは、一旦落ちついてからでもいい。

俺はそう一人頷いて、満天の星空の下、駆け出した。

――不思議と、満ち足りたような気分だった。

171: 当然の帰結1 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 20:59:45.51 ID:zDIKKfku0
今思えば、よくもまぁここまでやってこれたものだ、と思う。

秋川秀一とかいうチビでひょろひょろとした少年は、女性に対する嫌悪感と恐怖感を強く抱いている。

それなのに、共学にきたのは何の冗談なのだろうか。

……もっとも、すでにそれは解消され、今では恋人がいるぐらいではあるんだけど、ね。

「……へぇ。ふぅん。へー」

「秋川。言いたいことがあるなら、ハッキリ言ったらどうだ」

眉間にしわを寄せ、どこか不機嫌そうに言うのは無駄にマッチョな僕の友人、夏原智一。

一年の時からの親友とも言うべき存在で、今まで何度もお世話になってきたし、お世話してきた。

僕が冬森雪花という、彼曰く「秋川のドッペルゲンガー」な恋人ができたのも、彼の存在が無視できないものだ。

……とはいえ、今までその手で遊ばれてきたんだから、意趣返しぐらいしてやりたくなるのが人情というものではないだろうか。

「いやまぁ、その内にとは思っていたけどね。予想よりも早い」

「向こうが仕掛けてきたんだ。断る理由もないんだから、断らんさ」

「あんまり甘くない関係らしいねぇ」

僕と冬森さんとの関係は「砂糖の海のようだ」と評されるもので……不名誉な称号ではあるが「バカップル」……なのらしい。

まぁそれは仕方ないとして、彼とその恋人――僕達の友人である春野都子だ――はいまいち、ビターな関係らしい。

……もしくは、そう装っているか、か。

「……キス、ぐらいまでならしたが?」

「え。うそ」

僕らがそこまでいくのに何日かかったと思ってる? 常識的な速度なのか、これが? た、爛れている。若者の性は乱れている。

172: 当然の帰結2 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:01:36.15 ID:zDIKKfku0
「お前らが健全すぎるだけだ」

「健全で何が悪いのか」

健全にすぎるもクソもない。ポルノを全般的に否定するつもりはないけども。

それにしても、お互いに恋人ができたというのに、関係はちっとも変わらない。

なかなか、珍しいほうじゃないだろうか?

それに、互いの相手は互いがよく知っているのだ。

何せ、一年のときに立ち上げた“絵本部”のメンバーだったのだから。

絵本部は一人も新入部員が入らずに、とうとう僕達が三年を迎え、文化祭を通り過ぎて廃部となった。

最後まで、四人だけでやってきたのだ。本当に、よくやってきたものだ、と思う。

「……ま、一年の時にお前と冬森がくっついた時から……なんとなく、こうなるんじゃないか、と思っていたよ。その時は、俺の願望でしかなかったがな」

「じゃあ、当然の帰結ってところかな」

「そんなところだろうな」

この学校には、極甘のカップルと微糖なカップルがいる。

割ってしまえば丁度いい塩梅になるかもしれない。幸い、それぞれ友人であることだし。

173: 当然の帰結3 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:03:50.74 ID:zDIKKfku0
今思えば、よくここまでやってこれたと思うものです。

冬森雪花という、ひどく矮小で、おどおどした少女は、男性に対する嫌悪感と恐怖感を強く抱いていました。

それなのに、共学の高校に進んだのは、何の冗談なのでしょうか。

……もっとも、すでにそれは解消され、今では恋人がいるぐらいでは、あるのですが。

「……それは、なんというか……その」

「雪花。言いたいことがあるなら、ちゃんと言えばいいのよ?」

そういいつつ、ぐりぐりと私の頭を拳骨で固定している金髪のこの人は、私の友人の、春野都子さんといいます。

……一年生の時からの、私の大切な親友……い、痛いです。

「いたた……その、思っていたより、早いなって」

「私好みだったからね。夏原君は」

ようやく開放されました。夏原君……夏原智一君というのは、私の恋人の、秋川秀一君の親友で、逞しい体格の、少し古風な男のひとです。

彼は、つい先日、春野さんの恋人となったようです。……告白したのが、春野さんからだと聞いたときは、多少なりとも驚きましたが。

「もう、キスまでしたのよ?」

「ほ、本当、ですか……?」

あの、私達、そこまでいくのに結構な月日を必要としたんですけど。

……それとも、これが常識的な進行なのでしょうか? ……ふしだらです。

やっぱり、最近の若い人というのは、テレビや雑誌で取り上げられるように、ふしだらで不謹慎です。

「あんた達が純情すぎるだけじゃ……」

「悪いことでは、ないかと」

純情、結構なことじゃないですか。むしろ美点ではないでしょうか。過ぎるもヘッタクレもないに違いないです。

「……ま、皆幸せなら、それでいいかもね」

「そうですね。進行速度は、違っていてもいいと思うんです。でも、個人的には不潔かと」

「もう一回いっとく?」

遠慮しておきます。

174: 当然の帰結4 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:06:09.91 ID:zDIKKfku0
そんなこんな。

季節はすっかりと僕の姓にあるように秋である。葉は色づき、夜は深まる。

――さて、僕と冬森さんの関係、夏原と春野さんの関係は“当然の帰結である”という結論に到ったのが、朝の通学路での出来事。

それで、今起きていることといえば……。

「どうしてこうなった?」

意味がわからない。僕と冬森さんは以前、不良に憧れてお酒を飲んだことがある。

それの発展系になってしまったのは、一体なんでだろう?

――どうして、僕らは夏原の家で、酒盛りしてるんだろうね?

アルコールに冒され、正常な思考など望むべくもないが、必死に僕は頭を働かせる。そうだ。確か、放課後にまで時間は遡れるハズだ。

「というわけで。今から、打ち上げをしましょう!」

春野さんの声が、高らかに部室に伝わる。廃部となった我等の絵本部ではあるが、名残でここを居城としていたのである。

特にここにいる必要はないのだが、なんとなく皆してここにいて、なんとなくのんびりとしていた……というのに、急になんで。

「あの……今から、ここで、ですか?」

「……随分慎ましいな。変なものでも食べたか?」

恋人に対して、そんな辛辣な言葉を吐ける夏原は、ある意味すごいと思う。そしてそれを全く意に介さない春野さんもすごい。

「ふふん。甘いわ、トモカズ」

下の名前で!? お、欧米だ。流石ハーフ……。いや、いまどき普通なのか?

でも、でも僕もまだ冬森さんを「ユキカ」なんて呼び捨てにして呼んでないし、冬森さんからも「シュウイチ」なんて呼ばれて無いぞ。

……あれ、でも、なんか羨ましい?

「あなたの家、月曜日までご両親が帰ってこないらしいわね?」

「……ん? ああ。まぁ、そうだが。どっちも短期出張中だしな」

175: 当然の帰結5 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:08:05.67 ID:zDIKKfku0
「じゃあ、金曜の今晩から日曜までは入り浸れるわけね」

「勝手に俺の家をギャングのクラブハウスみたいな……」

「いいじゃない。別に。楽しいわよ? 近所迷惑にはならない程度に弁えるつもりだし」

あからさまに迷惑そうな夏原と、梃子でも動かなさそうな春野さん。見ていて面白いぐらい、夏原の意思がぐらぐらと揺れている。

春野さんは普段自信満々で、いつでも胸を張っているような人なのだが……そういう人が、時折見せる翳りというやつか。

それが夏原の弱点であるらしい。現に、夏原の反論は先ほどから弱まる一方だ。

「そうは、いってもだな」

「……ダメ?」

「わかった……いいだろう」

そして、トドメとなった。なるほど、上目遣いで頼まれたらさしもの夏原も断れぬというわけか。

とくに、「……ダメ?」の、溜めている部分にポイントがあるとみた。

「夏原君の、お家で、ですか? その、何をするんでしょう?」

「打ち上げなんだから、変わらないわよ。食べて騒ぐの。素泊まりで」

「え、泊りで……?」

っていうか、素泊まりって。

「いいじゃない。私、密かに憧れてたのよ。そんな、なんというか……その、若気の至り?」

「憧れるもんじゃないぞ、それ」

夏原の言葉が耳に痛い。僕と冬森さんはお酒で大失敗している。

お酒を飲んだ理由は、概ね春野さんと似たような理由で“不良なことがしたかった”からだ。

「はぁ……。どうせ言っても聞かんだろうから、これだけは約束しろ。朝になったら帰ること。

それと、あらかじめ家には連絡をいれておけ。了承がとれなかったら諦めろ」

「夏原、マジお父さん!」

「黙れこのダメ息子」

……ノリノリじゃないか。

「ふ、ふふ……思えば、初めてのお泊りじゃない」

「……不潔です」

「何を考えたの。雪花。ねぇ顔背けてないで教えて」

176: 当然の帰結6 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:10:14.38 ID:zDIKKfku0
――。

そうだ。そういえば、そんな流れだった。

その後、春野さんが携帯電話で強引に母を説得し、冬森さんは拝み倒して説得。

僕はといえば“むしろチャンス”と妙な方向にハッパをかけられたのだったか。あの母親……。

で、妙な包丁人っぷりを見せる夏原が腕を振るい、純和食で纏めた夕飯をご馳走になって。それで――それで、今に至っている、はずだ。

「……酒を買ってきた春野が悪い。俺は無罪だ信じろ秋川」

「ノリノリでおつまみまでこしらえてるじゃないか! 共犯じゃないか!」

「一度包丁を握ると俺はイエスマンになってしまうらしい」

そんな設定初めて聞いたよ。というより、料理できる系男子なことがもっと驚きだよ。

春野さん、冬森さんに買出しに行かせたのが間違いだったか。春野さんが進んで申し出たから、妙なことだとは思ったけど。

夏原に食材を先に見せることで料理に没頭させ、密かにお酒類を隠し持つって……そこまで、酒盛りしたかったんだろうか。彼女は。

「というより、お前も食って飲んでたじゃないか。俺のからあげはうまかったか?」

「……からあげのみぞれ和えとか作れるほうが悪いんじゃないかな。あと、手元にあったお酒。

僕は悪くない。あと、おいしかったですゴチソウサマデス」

……みんな悪いってことで。ここはどうか、一つ。

……冬森さんも春野さんに絡まれ、結構な量を飲んでいる。

僕ら二人で飲んだときはリミットがチューハイ一本だったけど、僕も冬森さんもそれをすでに超過している。何が起きてもおかしくない。

「と~も~かーず~」

……そして、春野さんはもうすっかり出来上がっていた。上気し、肌には朱が差している。

呂律の回らぬ口で恋人の名を呼び、這うように近づいてくる。……ホラーのようだ。

「ねぇ、キス、キスしよう?」

「お前……酔ってるな。秋川も冬森も見て……っ!」

177: 当然の帰結7 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:12:23.77 ID:zDIKKfku0
夏原の意思は無関係だったらしい。

強引に、春野さんは夏原の唇を奪い、貪るように口付けていく。

あれ。いやぁ、友人にキスを目撃されるとは夏原も気の毒に。

腕をばたばたさせているが、その抵抗が見る見る内に弱くなっていくのは、なんというか、捕食される虫のようでもある。

「……やっぱり、不潔です」

そんで、冬森さんは目が据わっていた。冷めた目で春野と夏原を見ている。

こっちもこっちで相当酔っ払っているようだ。無理も無い。春野さんにつきあって、あんなハイペースで飲んでいればなぁ。

「というより、ずるいんです。あきかわ、くん」

「……な、何かな?」

「私も、あれ、ヤリタイデス」

じりじりと、冬森さんが迫ってくる。これがいわゆる肉食系女子というやつなのだろうか。

すっかり捕食者の目をしている。対する僕はシマウマか何かか。

「ま、まぁ、待とう。もう少し、落ち着いて、ね?」

「あきかわくん」

聞いちゃいない。冬森さんは僕の背中に腕を回し、身体を密着させる。

「キス、したいんです」

ゆっくりと、彼女の唇が近づいてくる。拒めないこともない。しかし、すでに脳は冒され、蕩けている。

……何かを失っていても、前後不覚だったということですむ。

それに――よくよく考えたら、別に、拒む理由なんてどこにもないじゃないか。

――そして、彼女の唇が触れた。お互いに唇を合せているだけのキス。

それだけで、甘い痺れが全身を巡る。酔っているから、というのもあるだろう。麻薬にも似た、強い多幸感が身体を支配する。

彼女の体温と、アルコールと混ざった、彼女の匂い。お互いの吐息。それらの全てが溶けて混ざり――そして、それら全てを愛しいと感じる。

178: 当然の帰結8 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:14:23.05 ID:zDIKKfku0
――やがて、長いキスも終える。

隣はまだ続行しているようだが(夏原の顔色が悪くなっている。呼吸できてないんじゃないだろうか)いいところなようなので止めないでおいた。

「……つぎは、おさけ、ぬきで、やりたいです」

「そうだね」

くしゃり、と彼女の頭をなでてやると、どこか安心したように笑って――僕に抱きついたまま、崩れた。直後に、可愛らしい寝息が聞えてくる。

「……ああ、お酒臭い」

この部屋の臭気といったらない。窓を開けよう。そしてそろそろ、夏原を助けてやらねばならない。

先ほどから、ずっと春野さんがペースを握っているようだ。こういうことには、夏原は弱いらしい。

……少し可哀想だが、冬森さんの腕を解いて、上着をかけてやる。起きた様子はないので、そのまま窓を開ける。

……ああ、新鮮な空気って素晴らしい。外の風は冷たく、寒いぐらいだが、それが心地よい。

「……春野さん。そろそろ夏原が死にそうなんだけど」

虎の尾を踏んだような気分だが、仕方ない。春野さんの肩を叩いて、そう声をかける。

すると、思っていたより正直に春野さんはキスをやめた。二人の間に、銀色の橋がかかる。――なるほど、不潔だ。アダルティ。

「なーにーよー。い~ところだったでしょ~!」

「ま、まぁまぁ。落ち着いて」

だめだ。テンプレのように酔っ払っている。いや、そうでなくてはあそこで夏原に迫ったりしないだろう。

……夏原は夏原で、ひどく咳き込んでいる。

「悪い。秋川……助かった。春野、いくらなんでも酔いすぎだ。寝てろ」

「なまえ……」

「はぁ?」

「な、ま、え!」

まるで駄々っ子のように春野さんが両腕を高く振り上げ、何やら抗議している。

――名前で呼べ、ということだろうか。

179: 当然の帰結9 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:16:56.30 ID:zDIKKfku0
「……その、秋川が見てるんだが?」

「いいでしょ! 別に、呼んでくれなきゃ、もういっかい!」

「み、み……ミヤコ。もう寝ろ……な?」

夏原の精一杯の強がりとみた。うん。でも僕も冬森さんを名前で呼び捨てとかできないなぁ。

できるわけないし。お互いに“秋川君”“冬森さん”で納得している節がある。

ともかく、思惑通り名前で呼んでもらった春野さんは、満足したように笑って――ぐにゃり、と倒れて夏原の胸の中へと沈んでいった。

「俺は元々酒盛りには反対だったんだがな」

「……一番いいおつまみを頼む、で任せておけ! って叫んだのは誰だっけ」

「……むぅ」

言葉に詰まった夏原は、誤魔化すように咳払いをして、春野さんを適当なところに寝かせてやる。

僕らのすることは、さしあたって、この後片付けだろう。随分と散らかしてしまったものだ。……頭が痛くなるぐらいには。

「翌朝が楽しみだね、これは」

「よくて二日酔いだろうな」

かくて、僕と夏原二人で片付けと掃除を行い、全てが終わった頃には0時を軽く通り過ぎ、翌日へと食い込む程であった。

女性陣二人をいつまでもリビングに寝かすわけにもいかない、と二人が起きないように、それぞれをベッドに運んだりもした。

脱力した人間っていうのは、とてつもなく重い。軽い女性でもそう感じるのだから、相当だ。

運んだ場所、夏原の部屋のベッドはどう考えてもシングルだが、冬森さんが小さいのが幸いして、春野さんと冬森さんの二人が無理なく収まった。

ああ、くたびれた――と僕が身体を投げ打つ場所は、リビングのソファ。

……夏原は、床を選んだ。脱帽である。

180: 当然の帰結10 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:17:56.77 ID:zDIKKfku0
翌朝。どうにも身体が痛くなって起きる。ソファで寝るのは初めての体験だった。あんまりやりたいものじゃないな。首とか、腰が痛くなる。……見れば、夏原はすでに起きているようだった。何やらいい匂いがしてくるので、朝ごはんを作っているのだと思われる。……誰が想像しただろうか。あの夏原に家庭スキルが備わっていることなど。能ある鷹は爪を隠すというけど、本当らしい。

それにしても、着替えられないのが残念だ。服がお酒臭い。朝の仕度をしていたら本格的に目が覚めてきたらしく、身体のあちこちが悲鳴をあげていることに気付いた。首だの腰だのといった騒ぎではない。体制に無理があったようだ。

「よう秋川。起きてたか」

用足しついでに顔を洗おうとリビングを出ると、エプロン姿の夏原と出くわした。昨晩も見たんだけど、見たんだけど、絶対、似合ってない……と思う。筋肉質の男がエプロンって、そりゃギャグだよ。

「……本当に、いい主夫になれるよね、夏原」

「まぁ、それもアリかもしれんな。……さてと。朝飯が出来たから、全員起こせ」

「……春野さんにおはようのチュウぐらいしないの?」

「させたいのか」

「面白そうだけどね。まぁ、しないならいいよ」

さてと。自然に起きると、夏原の部屋にいることについてパニックを起こしそうだ。さっさと起こすに越したことはない。……とりあえず、顔を洗ってからね。

二人を起こして、リビングへと戻る。今朝も純和食で決めたらしい。アジの開きに玉子焼き。ネギの入ったお味噌汁とほかほかのご飯。お好みで納豆なんかも。

「……夏原。春野さんのお嫁さんになるんだね?」

つくづくそう思う。なんでこんなに家庭スキル高いんだろう。……言葉の響きが気に入ったのだろうか、春野さんが大きく頷いて同調する。

「いいわね、それ。毎日トモカズの作ったお味噌汁が飲みたいわ」

……今度は、冬森さんがどこか楽しそうに反応した。

「あ、いいですね。そのプロポーズ。男女逆っていうのが特に」

「……お前ら」

コメカミをヒクつかせながら、お玉を肩に当てる……そんな型に嵌った光景。うん。夏原がやるとお玉が純粋に凶器に見えてくるのが問題かな。

「……でも、特に冗談じゃないわ? 素敵だと思うのだけど」

にんまりと、春野さんがそう楽しそうな笑みを浮かべながら夏原を見る。夏原はといえば、どこか頬を赤らめて、聞こえないフリをしていた。本当は、まんざらでもないのだろう。でも、それに気付かれるのは癪ということか。かわいいところああるじゃないか。

「……なんだ、秋川」

別に、何も。

181: 当然の帰結11 ◆hwowIh89qo 2011/10/23(日) 21:19:32.78 ID:zDIKKfku0
朝食をいただいた後、そのまま解散という流れになった。

春野さんはもう少しいるとゴネ、僕と冬森さんはそのままお暇させてもらった。

……家にいる二人が何をしていようとも驚かない、とは僕と冬森さんの共通見解である。

二人とも、なかなか爛れた関係であるらしいし。本当、最近の若者の性というのは乱れまくっている。

「楽しかったですね」

「そうだね。あんなにバカみたいに騒いで、お酒まで飲んで。これじゃ不良だね」

「……前はできませんでしたけど、今回はできましたね」

幸い二日酔いもしてないし、散々お酒を飲んで騒いで……。

不良としては、まぁ、合格ラインだとは思う。世の不良とかいうのが如何なるものか、よく理解はしてないけど。

「さてと。じゃあ、僕らも僕らでどこかに行こうか」

「そうですねー。食べてばっかりでしたけど、思えばお菓子は食べていませんからね」

やっぱり、スイーツがないとね。

お菓子めぐりの旅を二人でするのも悪くないだろう……。

とりあえず、着替えてからね。いくらなんでも、お酒臭い格好でこのまま出かけるのはまずい。……あと、シャワーも浴びよう。

「……気になる辺り、やっぱり私達、不良にはなりきれないですね」

「まぁ、それでいいよね。……じゃあ、正午過ぎにまたってことで」

「そうですね。では、また」

冬森さんと別れ、帰路につく。

気温は少し低く、軽く肌を刺すような寒気がする。

それが今は、どこか心地いいぐらいだった。

楽しみは、まだまだこれからも続く。

きっと、今日も幸せな一日になるに違いない。

ありふれた、小さな幸せだ。……ただ、僕らにとってはどんなものよりも大きい。

「……こうなるのも、当然の帰結、かな」

そういうことなら、精々、目一杯楽しむとしよう。

193: ◆CQNuph2.ro5A 2012/01/28(土) 21:03:13.74 ID:1bve/6vv0
唇と、唇が触れる。互いの息が漏れ、肌に触れる。

舌が唇を割って入り、絡めながら、互いの歯茎を丹念になぞっていく。

お互いの唾液が、舌を通して交換されていく。

――もう、何度も繰り返した行為だ。僕と彼女の、キスのハードルは思ったよりも低くなってしまった。

それが悪いことなのかどうかは、今の僕には判断しかねる。

僕、秋川秀一という、一人の人間の雄は、冬森雪花という一人の人間の雌を、明確に番として見ているからだ。

長期的に見れば、彼女とは案外、短い関係で終わるのかもしれない。全てに永遠はない。彼女との関係も、ふとしたきっかけで崩壊する。

今の僕らは針の先で、懸命に落ちないようにバランスを取っているに過ぎない。

だから――だからこそ、お互いを強く残そうと、するのだろうか。

それとも、動物的本能の最もたるもの、◯◯に動かされているに過ぎないのだろうか。

……いや、もう、なんだっていい。彼女とのキスは、僕の理性を、紅茶に落とした砂糖のように溶かしてしまう。

考えるのは無粋だ。なんだっていい。彼女を、僕のものにする。

抱きしめる力が自然と強くなり、彼女は強く目を瞑る。彼女の背中を、背骨にそって軽く指先でなぞってやると、彼女は小さく震えた。

もう少し続けていたいという気持ちを必死に押し殺して、唇をそっと離す。

僕と彼女との間には、名残惜しそうに橋がかかり、少しもしないうちに落ちた。

「冬森さん。――ううん、雪花。君を、僕のものにしたい」

「は、はい。しゅういちの、すきにしてください」

彼女の、か細く、震えた同意の声に、僕は少しの罪悪感を覚えながらも頷いた。そして。

僕は彼女の胸のリボンをそっと外して――。

194: ◆YwvCIDfMr/rD 2012/01/28(土) 21:05:46.91 ID:1bve/6vv0
……というのは嘘である。

あんまりに捻りのない話だが、夢のことだ。

自分があんな夢を見るとは、少し意外だったが、自分がやはり◯◯に囚われがちな若者であるということを証明できたような気がして、少し嬉しくもある。

普段から枯れているだの、僕と冬森さんを指差して熟年夫婦だのなんだの、若者にあるまじき称号をつけられて不名誉な思いをしていたが……。

そうではないのだと、自分の中で大きく主張できる。

「……まぁ、土曜の朝に見るような夢でもないよね」

そも、彼女とのデートの約束があるというのに、我ながらなんという夢を見ているんだ。

枯れていないという、ある種当然のことを証明できたと喜んでいる場合ではないだろうに。

さて、どんな顔をして彼女に会いにいけばいいんだろうね。

待ち合わせ場所は、いつもの『ジュピトリス』だ。少し気が早かったのか、予定より三十分前についてしまう。

仕方ないので、中でコーヒーでも飲んでゆっくりしていこう――そんな具合に思っていたところ、正面から見知った顔がこちらに近づいてきたのが見えた。

「……やぁ、おはよう。冬森さん」

「あ、おはようございます。秋川君」

気が早いのはお互い様、というところだろう。

「朝、変な夢を見てしまったせいで、いつもより気が急いてしまいました」

どこか照れたような、可憐な笑みを彼女は浮かべた。

……ううん、ふしだらな夢見て飛び起きた僕とは対照的だ。彼女のことだ、人食いケーキにでも夢で出会ったのかもしれない。

195: ◆E8EfOIzjaOP8 2012/01/28(土) 21:08:33.54 ID:1bve/6vv0
「僕もそんな感じだよ。いい夢とは言えなかったけどね。起きたら汗だくになっちゃってさ」

「そうですか。……悪夢ですか?」

◯◯でした。……と言えるわけもなく。

「ケルベロスみたいな犬に追いかけられる夢だったよ。僕が何をしたっていうんだろうね」

「それは……。私なら、起きたときに泣いてしまうかもしれません」

彼女の純粋さが辛い。頭から信じ切っているようだ……。

君と◯◯◯なことをした夢を見たんだよ、と無神経に言えるようなハートが少しでもあれば、もう少しマシな嘘をつけただろうか?

いや、それもそれでどうなんだろう……?

「ともかく。少し早いけど、行こうか?」

「そうですね。美術館、楽しみです」

市内の美術館が本日のメインとなる。

中学の頃から馴染みのある場所だったのだが、高校に入ってからは行ってなかった。

「すぐ近くの、最近できたっていうお店が美味しいって評判らしいからね。帰りに食べていこうか。まぁ……そのままお昼になりそうだけどね」

「よくあることじゃないですか。お菓子が昼食って」

うん。よくあるんだよね、僕達。栄養学的に見ればとんでもない話で、若いうちじゃないとできない暴挙と言える。

「まぁ……じゃあ、いいか。この分なら一本前のバスに乗れそうだし、少し急ごうか」

「あ、はい。あ、と……。手、いいですか?」

196: ◆i0ckv/cjPwVF 2012/01/28(土) 21:11:24.14 ID:1bve/6vv0
おずおずと、彼女は少し気恥ずかしそうに手を伸ばしてきた。

僕はその手をそっと握る。うん。僕らはこうして手を繋ぐだけでもどこか気後れを感じるようなカップルなんだ。

今朝方僕が見たような夢が実現するのはもう何年か後の話になるだろう。

だから、早く忘れるんだ僕。可及的速やかに且つ迅速に、だ。

「手、冷たいね」

「あ、手袋、忘れてきちゃって……。でも、秋川君の手、あったかいです」

「そっか。それは良かった」

小さく笑いあって、歩き出す。うん。いきなりいい感じじゃないだろうか。

僕らは、どこに出しても恥かしくないような、小さなカップルだろう。

バスでしばらく行ったところに、規模は小さいながらも立派な美術館がある。

彼女はバスから降りて、周囲を一瞥するなり、感嘆の声をあげた。

「わぁ……思えば、久しぶりに来ました」

「冬森さんも、以前に?」

なんだかんだ、ここに僕ら二人でくるのは初めてのことである。

冬森さんは来たことがないだろう、と勝手に思い込んでいたが……。

「はい。秋川君の絵と、初めて出会った場所です」

「そういえば、一年生のころに言っていたね。そうか、ここか」

「はい。何て素敵な絵を描くんだろう……って。感動しました」

「そう正面きって言われると、少し照れるかな……」

197: ティーカップに、欲望を5 ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:14:17.06 ID:1bve/6vv0
冬森さんが僕の絵をベタ褒めするのには、未だに慣れない。

なんというか、全身がむず痒くなる。彼女の笑顔が純真すぎて、お世辞だと感じないからだろう。

「……丁度、この前のコンクールの優秀作品が展示されてるらしいね」

我等が東八木高校美術部からもいくつか選出されているハズだ。

僕が残っていれば、或いはまたここに絵を置かれるようなことがあったのかもしれない。

でも、僕が絵を一番見せたいのは今ここで隣にいる彼女なのだから、今更未練などは感じない。

「こういうところで自分の絵が置かれるっていうのは、どんな気分なんでしょう?」

「恥かしいような、名誉なような――僕は認められたっていう実感があったかな」

「人に認められるっていうのは、嬉しいことですからね。……私も、私のお話が、秋川君に認められて、すごく嬉しかったですから」

「……僕も、冬森さんに素敵な絵だと言われると、とても嬉しかったな」

まぁ、初めて言われた時は嬉しさよりも驚きの方が強かったのだけれどね。

そんな時期もあったな、となんとなく他人事のように考えてしまう。

異性が恐いのは、今も同じだ。ごまかされているか、薄れているかに過ぎない。彼女も恐らく同様だろう。

僕と彼女は、再び手を繋いで、のんびりと美術館を見て回ることにした。

絵の他にも彫刻だったり、映像芸術というものがあったりして、二人してわかったようなわかってないようなことを言い合ったり

トリックアートの展示コーナーでは、二人して首を傾げたり、驚いたりした。

なかなかに、濃い時間を過ごせたんじゃないかな、と思う。

198: ティーカップに、欲望を6 ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:16:34.46 ID:1bve/6vv0
予定通り、僕たちは美術館近くの喫茶店に足を運んだ。

最近出来たというだけあり、外観も奇麗なもので、中の雰囲気も良い。

メニューも写真つきでわかりやすく、お菓子の類にも期待ができそうな写りをしていた。

僕らの目的はまさしくお菓子なのだ。一番大事なところである。

「面白かったですね。ここのお菓子も美味しそうですし、本当、秋川君といると幸せになれます。……いい人を、恋人にできたと思いますよ。本当に」

彼女は柔らかな、春の陽だまりのような笑みを浮かべてそんなことを言う。

赤面ものだが、彼女の気持ちは素直に嬉しく思う。

「そうだね。僕も、冬森さんが恋人で良かった、と思うよ。僕たちは永遠だ、とは言うのはおこがましいことかもしれないけど――それでも、今は永遠を望んでいるよ」

僕らは、針の先で懸命にバランスを保っているのにすぎない。

足元がしっかりしていると思い込むのは危険であり、傲慢だ。

ふとしたことで、何物であれ崩壊しうる。だからこそ、人は人としているのだろう。

懸命に、今を残そうとするのだ。

「そこは、永遠だ、って言い切ってほしいところですね。わざわざ未来の崩壊を視野に入れる必要なんて、ないんですから。

刹那主義を掲げるつもりなんて、ありませんけど。今、こうして幸せなら、いいんじゃないですか? 未来を見ても、怖くなるだけですから」

怖くなるだけ、か。確かに、そうかもしれない。

……お互いに、裏の無い笑顔で笑いあえることができているのなら、考える必要なんてないのだろう。

「そうだね。じゃあ、言い直すよ。僕らは、きっと永遠だ」

「はい。……私も、それを望んでいます。そう信じることが、永遠への第一歩ですから」

「永遠だと、お互いに信じることができたら、ね。……とりあえず、そろそろ決めようか?」

199: ティーカップに、欲望を7 ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:18:28.65 ID:1bve/6vv0
店員さんの目が痛い。

注文もせずいつまでしゃべっているつもりだこのバカップルが、というような強烈な視線がある。

……ううん。名前は思い出せないけど、たぶんクラスメイトだろう。顔を見たことがある。

「非リア同盟」の一員だったと思う。……所属していない僕を追放するという離れ業をやった組織だ。

「なら、アップルパイがいいです」

「アップルパイ……」

僕らが初めて唇を交わしたときに、ジュピトリスで食べたお菓子だ。

あそこのは美味しかったけど、ここのはどうだろう。

「美味しそうですよ?」

「なら、そうしようか」

そんなわけで、アップルパイと紅茶を注文。

どうにも、僕の中ではアップルパイとキスが関連付けられているらしく、気後れしてしまう。

別に後ろめたく感じる必要などないのだし、あれきり、というわけでもない。

でも、あのキスだけは今でも特別な気がするのだ。淡く、リンゴの香りがした、あの時のキスが。

「初めて、キスをした時にも食べましたね」

少し彼女は気恥ずかしそうに、そう言った。

彼女も覚えていたらしい。むしろ、覚えていたからこそのチョイスだと言えようか。

「うん。僕も、同じ事を考えていたよ。刷り込まれているらしくてね」

「……食べて、お店を出たら……その」

顔を赤らめて、後半はごにょごにょと言い淀んでいるのが愛らしい。

あの時は、もっと大胆に切り出していたような気がしたけど。

200: ティーカップに、欲望を8 ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:21:37.11 ID:1bve/6vv0
「そうだね。そうしよう。……僕も、そんな気分だから」

「なら、おんなじですね」

「そうだね。おんなじだ」

彼女は少しホッとしたようにして、それから、照れたように笑った。

一方的に自分が口づけを望んでいるというわけではないとわかったから、だろうか。

程なくして、アップルパイと紅茶が運ばれてくる。

シナモンの香りは薄く、甘いリンゴの香りと、それに混ざってバターの香りがする。なるほど、美味しそうだ。

「夢で、見たんですよ」

少し食べ進めていくと、彼女が唐突にそんな事を言った。

言葉が足りないのはいつものことなので、僕は少しおどけてみることにする。

「これをかい?」

そういえば、変な夢を見たとは言っていたけど。本当にアップルパイの夢を見たのだろうか?

でも、それは別に変な夢でもないような気がする。

パイに食べられる夢なら、そりゃあ確かに変な夢だとは思うけど。

でもそれなら彼女は悪い夢と表現するんじゃないだろうか。

「いえ、あの、違うんです」

彼女はぱたぱたと手を振って、僅かに顔を赤くして補足する。

「秋川君と、キス……する夢を、です」

「ああ、それでこれか」

僕はもっとひどい夢を見た、とは言わないでおく。説明できる自信がないし、何よりしたくない。

……うん。ここのアップルパイも悪くない。ジュピトリスのよりは甘さ控えめで、リンゴに酸味が感じられるものの、それが返って全体的な味を引き締めている。飽きない味だ。

201: ティーカップに、欲望を9 ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:23:47.38 ID:1bve/6vv0
「でも、それだけじゃなくて……その、もっと一つ上の段階に進んだ、というか」

何やら、雲行きが怪しくなってきた。少なくとも、話の続きはここでするべきではないぐらいには。

誰にも聞かれていないにせよ、あまりこういう場所ではよろしくない内容なような。

「その、簡単に言ってしまえば……」

「ま、待った。後で聞くよ」

なるほど。確かに変な夢なのだろう。僕が見たソレと同じ程度には。

「そ、そうですか?」

「うん。まぁ、あれだよ。……味はどうかな? これ」

とりあえず、意識をお菓子のほうに向かせよう。

あんな様子じゃ、味もあまりわかっていないんじゃないだろうか。

こういうのはしっかり楽しまないとね。

「私は、もう少しシナモンがあって、甘いのが好みですけど。でも、これも良いと思いますよ」

「僕も好みとしてはジュピトリスのが好きだけど、これはこれですごく、美味しいと思う」

喫茶店『メガリス』、先が楽しみな店だ。『ジュピトリス』同様、名前が変な気もする。

メガリス、要するにストーンヘンジなどの巨石記念物の事である。店長は遺跡マニアなのかな。

「……そうだ。この後、どうしましょう?」

「この後か。そういえば、考えてなかったね」

お開きにしてもいいけど、バスで戻ってきても二時手前。少し寂しいような気もする。

「その、よければ、私の部屋にきませんか」

「冬森さんがいいなら、僕は構わないよ」

今までに数回は、お互いに行ったり来たりしている。今更抵抗らしいものは感じない。

初めてお邪魔したときは、なんとなく緊張したものだ。多分、それは彼女も同じだっただろう。

202: ティーカップに、欲望を10 ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:25:55.84 ID:1bve/6vv0
「じゃあ、そうしましょう……あ、ところで、秋川君」

彼女はレジカウンターの方に目線を向けながら、僕に尋ねてきた。

「やっぱり、このお店もロボットに関係しているんでしょうか?」

「どうだろう……」

レジカウンターに鎮座していたのは、一つのプラモデル。

なるほど、『メガリス』は何も巨石記念物の意味ではなく、店長は遺跡マニアではなくゲーマーなのかもしれない。

そうか、発電所の方か……。変なところから名前を取ったものである。

女の子の部屋なのだから、当然女の子らしい部屋である。

小奇麗にまとまっており、全体的にコンパクトな印象を受ける。

掃除もまめにしているのだろう、埃なんかが積もっている……ということもない。

僕の部屋よりは数段清潔らしい。もっとも、僕も掃除をしていないというわけではないが……。

彼女のようにまめにしているかとなると、頷けない。

「ねぇ、秋川君」

彼女は僕の名前を呼んで振り向くと、唐突に抱きついてきた。

僕は彼女の肩を優しく握り、それを受け入れる。彼女は僕をやや見上げて、言葉を続けた。

「きす、してください」

「約束、だったからね」

彼女のその柔らかそうな唇に、そっと口づけする。

少し時間をおいたせいか、リンゴの香りというよりは、紅茶の香りがした。

触れるだけの、所謂バードキスというやつだが、それでもその破壊力といったらない。脳髄が融解でもしてしまいそうだ。

203: ティーカップに、欲望を11 ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:28:55.88 ID:1bve/6vv0
「私、夢で見たんです」

「……冬森さん?」

意を決した、というよりは、この状況に酔っているかのような様子だ。

目が蕩けているように見えるし、正常な思考ができているかわからない。

「それで、いいと思ったんです。それが秋川君なら、私、幸せだって」

「それ、って」

聞かなくても、わかっているはずだ。多分、彼女も今朝、僕と同じ夢を見たのだ。

きっと――あの、熱病のような、頭がのぼせそうな夢を。

「……今は、家に、誰もいないんですよ」

「そうだね。君と、僕しかいない」

いつしか行ったやり取りの、まるで正反対だ。

あの時は、『家にみんないた』のだ。そして、今は、『家に誰もいない』

……彼女が言わんとしていることは、わかる。でも、いいのか?

「冬森さん。君は――」

僕が言いかけたことを、彼女は強引にキスで塞いだ。

少し力が入っているのか、どこか熱っぽく、濃厚なものだ。

舌を入れるような、所謂“深い”キスではないものの――。

それでも、何もかもが融けてしまうような、あるいは、どうでもよくなってしまうような、そんな気分にさせるのには十分だった。

おかしい。絶対に、おかしい。

「……おかしいことなんて、何もないですよ」

長いキスをようやく終えると、彼女は普段どおりの、暖かな笑みを浮かべてそう言った。

僕は少し怯えてしまっていたかもしれない。……状況の急な変化が得意な性質ではないのだ。

204: ティーカップに、欲望を13 ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:32:03.20 ID:1bve/6vv0
「私、秋川君が好きです。きっと、誰よりも」

僕の返答を待たず、彼女は言葉を続ける。

「秋川君は、どうですか。私のことが、他の誰よりも好きだと、言ってくれますか」

――どこか、寂しそうな、顔を彼女は浮かべているように見えた。ああ、そうか。

「言うよ。僕は、冬森さんのことが、他の誰よりも、好きだよ。――愛してる」

そういえばここのところ、好きだ、なんていう言葉を使っていなかった気がする。

どこか遠まわしな表現をしていたハズだ。彼女は、少しだけ焦っていたのだろうか。

「私たち、きっと、きっと永遠ですよね」

「そうだね。僕たちがお互いを信じていられるかぎり、永遠だと思うよ」

お互いに見つめ合って、それから、笑い出す。

……何をしていたんだろうか、僕らは。

「雰囲気に呑まれすぎでしたね。少し、焦りすぎました」

「そうだね。何事かと思ったよ――でも、それは僕も同じだ」

そうだ。焦る必要はない。ゆっくり、僕ららしくいけばいい。

少し夢見が悪かった程度で、少し言葉が足りていなかったからとて、何を焦ることがあったのだろうか。

「……でも、秋川君になら、っていうのは本当ですよ?」

「そっか。ありがとう。……で、いいのかな」

彼女の言葉は重い。僕にはそれを受け止めるだけの資格があるのかどうか――少し、悩む。

こういう事柄に大して、小さくないトラウマを抱えているのだから、その言葉が出てくるまでには、きっと大きな躊躇いと、覚悟があったことだろう。

「夢の中の秋川君は、ケダモノさんでしたから」

くすり、と彼女はそう冗談めかして言う。そうか、ケダモノだったのか……。

どれだけの蛮行をしでかしたのだろうか、その僕は。

「なら、そうならないように気をつけるよ。冬森さんを傷つけたくはない」

「では、私も気をつけます。怖がらないように」

――僕ららしい、お互いを気遣った、約束だ。

205: ティーカップに、欲望を 蛇足 ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:33:12.80 ID:1bve/6vv0
「……で、そこまでいって何もなかったワケね。枯れているのとどこが違うの」

春野さんは、そうどこか呆れ顔を浮かべていた。

ううん。やっぱり、枯れているって言われてしまうのか、僕らは。

……他の人たちはいったいどうしているんだろうか。

「いや、これでも、あの後何回か、そんな空気になりはしたんですよ」

「……どうしても途中で何か違うような気がするんだよね。不思議なことに」

「ですよね。私たちには何か合わない気がしますよね。もっと言えば、担当じゃない、とか」

「私とトモカズの担当、ってわけ?」

「……言い返せないだろう。春野」

夏原はどこか疲れた顔をしている。……ああ、そういうことなのかな。

「な、うるさいわね……。私たちのことはいいのよ、今はこの老夫婦のことを言ってるの!」

「別にいいんじゃないか。別に、やんないと死ぬ行為でもないだろ……」

そうだとも。僕らはゆっくり、関係を縮めるさ。

206: ◆hwowIh89qo 2012/01/28(土) 21:35:32.85 ID:1bve/6vv0
というわけで以上になります。

それと、宣言どおり次回は限りなく未定です。

あるかどうかもわかりません。というより、この四人で話を引っ張っていくのもある種限界なのかもしれません。

なので、今回を暫定的な最終回ということにしておこうと思います。

今まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

http://ex14.vip2ch.com/news4ssnip/kako/1301/13013/1301314639.html

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする